ヤマト姫、伊勢宮を定む

 タマキ宮(垂仁帝)九年九月十六日、二度目の中宮のカバイツキ姫が、ヤマトオオクニ神から垂(しで)を賜わった夢を見ました。その後まもなく懐妊の兆しがありましたが、この時はただ病んだだけで結局子供は生まれませんでした。丁度、三年後の九月十六日になってやっと生まれ出た姫御子(ひめみこ)は、ヤマトオオクニ神の夢にちなんでヤマト姫と名付けました。つらい事に母は産後に病んで十月二日この世を去りました。天皇は后の死を心から痛み嘆いて日々を送り、后の社(やしろ)を造って、ツヅキカバイノツキノ神の名を賜い送葬しました。(旧・山城国綴喜郡・ツヅキ・樺井月神社・カバイツキ)

 十五年二月十五日になって、御門(みかど)は三度目の后をお迎えになりました。タニワミチノウシノ姫達で、長女の名をヒワズ姫といい、次はヌハタニイリ姫、中はマトノ姫、次の妹はアサヒニイリ姫、最後はタケノ姫の五人でした。この五人の后達は先のサホヒコの謀叛で、不幸にも巻添えになって失った最初の后サホ姫が死に際に最後の言葉としして乞うた、「私の亡き後、タニワチウシの姫達を後任にお願いします」との、后の約束を果たしたものでした。

 八月一日、姉のヒワズ姫を中宮に立てて妹の三人を各々后としました。しかし五人目のタケノ姫だけは容姿が醜かったので、一人だけ国に送り帰しました。タケノ姫は国に向かう道々、自分の置かれた境遇を心から恥ずかしく思い、御輿(みこし)から川に身を投げて自殺してしまいました。
 この地を旧称乙訓(オチクニ)郡と呼び、羽東師(ハズカシ)の地名と共に日向市(ムコウー国に向う)の名称はあわれな姫のつらい思いを、死してなお今日までとどめています。
 后となられたヒワズ姫は、後に三男一女の子供に恵まれました。この内二十年の十一月生まれた二番目の御子がヤマトオシロワケ、真名(いみな)タリヒコで十二代景行天皇となられました。

 十五年二月八日に君の詔があり、「我が父の先帝ミマキ(崇神天皇)は、聡明な方で、秀でた正しい政治(まつり)を執られ、又時に間違いは勇気を持って正し、驕ることなくいつも謙虚に神を崇めて国民のために身を尽くしたお陰で、豊作が続き、民の生活(くらし)も豊かに平和が続きました。今、我が世にあっても怠らず神を祭ろうと思う」

 三月八日、今日までアマテル神の斎女(いつきめ)として奉祀していたトヨスキ姫から御霊(みたま)を解き放ち、新たにヤマト姫に着けました。昔、トヨスキ姫は夢にアマテル神のお告げを受けて、御霊笥(みたまげ)を担(かつ)いで丹後の国のヨサ宮(現・籠神社・コノ)に行き、アマテル神の御霊を戴いて巡行したことがありました。ヨサ宮の前にいざないかかる美しい天橋立は、アマテル神をお祭りするヤマト(奈良)カサヌイ村から青空高く瑞雲が立ち昇り、それはあたかもミヤズ(宮津)の青い松の枝々に棚引き渡すかのように崇高で美しい眺めでした。

 後にトヨスキ姫は一旦ヤマト、ハイバラ(榛原)のササハタ(篠幡)宮に帰りました。が、再び神の夢の告げを受けると、大御神の形見を戴いて鎮座の地を求めて巡行し、オウミ(淡海)からミノ(美濃)を巡って、又ウダのササハタ宮に帰って後、イセに赴き、タカヒオガワ(高樋小川)という所でやっと鈴の音を止めました。この地にタカ宮(高宮)を建造して御霊安かれと鎮めました。

 二十二年十二月二十八日、ヤマト姫ヨシ子はこの年十一歳の時、神に貢ぐための御杖代(みつえしろ)となる決心を固め、ワカゴ親子(大若子命と乙若子)を伴って、アメノウズメ緑の御櫛(みぐし)を奉納しようとイセに向かう途中、櫛を落とした所をクシダニ(櫛田神社)と言います。
 年を越えて夜の未明にクシダニを発った一行が、元旦の初日(はつひ)を拝んで進んだ原をアケノ原(明野)といいます。イセタカ宮に着いたヤマト姫はトヨスキ姫に伯母(おば)として仕えました。

 二十三年九月一日、君の詔があり、
 「我が子ホンズワケは髭が生える歳になってもまだ子供のように泣きいざち、物も言えないのはなぜだ」と。諸臣たちは早速協議してヤマト姫に祈らせることに決まり、姫は粥占(かゆうら)の神事を行って兄ホンズワケの事を祈りました。この故にこの宮をイイノ(飯野)宮と呼ぶようになりました。

 三年後、トヨスキ姫の歳も百三歳となり、もうこれ以上御杖の役が勤められないと悟ってヤマト姫に見習わせて、かねがねこの由を御門(みかど)に書面を持って願い出ていましたが、この度はやっと聞き入れられて、ヤマト姫は御霊笥(みたまげ)を担いでこのイイノ宮を出てアマテル神の御霊をイソベ(伊蘇宮・イソミヤ)に移して鎮めました。

 又ここで、良い宮の鎮座地が南の方向に有りとの神の啓示を受けた姫は、ワカゴを遣って調べさせたところ、イスズ川の上で、二百八万歳の翁サルタヒコに遭遇し、サルタヒコがワカゴに語っていわく、「我れ昔、アマテル神から授かった賜物をサゴクシロのウジ宮(伊勢神宮の前身)に入れて荒魂(あらみたま)として祭り、八万年待ち続けてまいった。その神宝は、天(あま)つ日嗣(ひつぎ)の逆矛木(さかほこぎ)と美しき鈴である。ここは地の息の立ち昇る神の聖域なれば、神明を揚げ、祝詞(のりと)を上げ、神楽(かぐら)を奉じて、いつの日か天成道(あめなるみち)を現わしたまえと祈り、天から確かな主が遣わされるのを待ち続けてまいった。素性(すじょう)のはっきりせぬ者には渡せぬ。たとい我が子といえどもこの神宝は譲り得ぬ。

 さあ汝にこれを授けよう。我れナガタ(淡国長田・アワクニ)生まれの土君(つちぎみ)は元のナガタに帰って土となり神上がろう。この神宝を持ち帰って、主にこの旨を告げよ」と言って消え失せました。

 オオワカゴは帰り、ヤマト姫にこの一件を申し上げると、早速ウジに行き、この土地を見ていわく、「これ神風(かんかぜ)のイセの宮、三宝(ミクサ)は祭る源(みなもと)」と申しサルタヒコの座った座石(アグライシ)を敬い拝んで感謝の気持ちを表わし土君神を祭りました。後にオオハタ主と八十人の供の者達に命じて、イソスズ原の草を刈り取らせて整地して、遠近(おちこち)の山から良木を切り出し、木の真ん中を使用して、根の方を上に大宮柱を敷き建てました。千木(ちぎ)の高さも定まり宮が完成したので御門(みかど)にご報告すると、詔があり、「ミカサの大臣(おとど)を斎主(いわいぬし)に、ワタライ臣は神主に、アベタケヌガは天皇の代参に、ワニクニフクは中宮の代参に、モノベトチネは太上后の代参に、タケヒ朝臣(アサト)は、諸皇子(もろみこ)の代りに」と、各々に役を命じて詣でさせました。

 二十六年九月十六日、いよいよ大御神が、イソスズ川のサゴクシロウジ宮に渡御(とぎょ)され、十七日の真夜中には御丈心柱(みたけはしら)を納めました。この時、御門(みかど)が自らタケの都に御幸(みゆき)して豊作を祈り、雨、風、日照り程良くと、国豊かにとの気持ちを込めて五節句(正月七日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日)の仕事休みを初めて定め給いました。
 諸民は心からこの御恵み(みめぐみ)に感謝して大いに遊び楽しみました。

 この新しい宮の完成にアマテル神も大層喜ばれてヤマト姫に夢の告げがありました。「昔、我が住むサゴクシロ、重波(しきなみ)寄するイセの宮、永く鎮まり守るべし、トヨケの神と諸共(もろとも)ぞ」  ヤマト姫がこの言葉を御門(みかど)に告げると、君も大変喜んで和弊(にぎて)を自ら造ってトヨケの神への勅使としてオオミワの臣、ミケモチを定め派遣しました。今度の斎主(いわいど)はタニワミチウシでした。

 オオクニヌシの神の教えるところは、「大御神が子孫繁栄を思(おぼ)して、イセ(妹・背)の道を定め給い、八百万人民を活け恵みます。故に鰹木(かつおぎ)の数を八本として、千木(ちぎ)は内側を削る故に内宮という。この意味は、宮内の運営は軽くして八民(やたみ)が少しでも豊かになることを願うからです。又、トヨケ宮は逆矛(さかほこ)の法により、天の高天原の九星座(コクラ)を表わし、鰹木(かつおぎ)は九本です。千木(ちぎ)は外側を削ぐ故に外宮といいます。御心の内は厚くその威光は民の父、神を恐れ道を得なさい。内宮は君の御心はあたかも母親が子を恵む法である。
終り

出典
ホツマツタエ(国立公文書館蔵)
秀真(ほつま)政傳紀(和仁估安聰訳述)
高畠 精二