大国主、出雲を譲る
出雲建国の祖ソサノオの御子オオナムチ(出雲大社祭神、別名大国主、島根県)は、父を反面教師として育ったかの様に、性格は穏やかで情にもろい反面、国土経営には卓越した才能を発揮して、スクナヒコナ(現・加太淡島神社祭神、和歌山県)と共に力を合わせて農地開拓に努力し豊かで平和な国造りに成功しました。
時は二十五鈴九十三枝(フソイスズコソミヱ)年のサアヱ(三十七)夏の日、カグノ宮(香具宮)の庭に国政を占うために植えられた橘の木の一枝が突然枯れる凶事が起こりました。早速宮中では諸神が集いフトマニ(太占)を占うとシチリ歌の大凶の卦を引いて、「家漏り(ヤモリ)が激しい」とありました。
この意味は、風激しく大樹も折れ、天に叛いて国家を危うくする謀反があるとの危急を告げる内容でした。神議(カミバカリ)の末、西北(ツネ)の隅の国の出雲にヨコベ(検察官)を派遣して調べさせることになりました。
ヨコベの復命報告は、
「出雲八重垣の臣(近衛隊長)のオオナムチ(大己貴)は自国の繁栄に驕りたかぶり、月が満つればやがては欠ける理(ことわり)通り、今では宮の額表(ヌカ)を書き変えて皇室と同じ名を使い玉垣内宮としたり、又、アマテル神の大内宮に匹敵する雄大な九重(ココノエ)の大宮殿を築いております。」
以前オモイカネ(思兼命)は、妻シタテル姫(アマテル神の姉)と共にヤスカワ宮(野洲川、滋賀県)で東宮(皇太子)オシホミミの御皇子守(ミコモリ)役をしていましたが、死後アチノ神(阿智神社、伊那郡阿智村、長野県)の神名を送られて信濃のイナホラ(伊那洞)に葬られ神上がりました。
このような事情により、タカミムスビ(高皇産霊)のタカキネは急遽七代目継承を祝うウナメゴト(大行事)を執り行った後、ヤス川辺にイマミヤ(今宮)を新しく建ててオモイカネの後を引き継ぎ、タガ(多賀)若宮(オシホミミ)のコフノトノ(御守護殿)に就任しました。
丁度この時、タカミムスビは新築なった今宮に於て緊急に諸神を集め神議を再開しました。この席で早速ヨコベから出雲のオオナムチの近況が皆に伝えられ、緊迫した長い討論の末にタカミムスビは最重要課題を皆に問いかけました。
「出雲を糺(ただ)しに向ける勅使は誰が良かろう」
その時異口同音に、
「ホヒノミコト(天穂日命・アマテル神の御子、出雲大社初代祭司、出雲国造家の祖)」
と皆言えば、ホヒノミコトと神議一決して、ホヒを出雲鎮撫に向けることになりました。しかれどもホヒはオオナムチの人柄と豊かな国ぶりにひかれ、へつらいこびて三年経っても復命しませんでした。しからばと今度はホヒの息子のオオセイイ・ミクマノ(大背飯三熊)を派遣したものの、やはり父の言い成りになって行ったまま帰らず復命しません。二度の失敗の末、この度が最後と固い決意をもってタカミムスビは神議を招集しました。
その結果出雲向けの究極の使者はアマクニタマ(金山彦の子、天国玉、現・南宮神社、岐阜県)の御子のアメワカヒコ(天稚彦神社、滋賀県)以外なしと決定し、タカミムスビはアメワカヒコに任務の貫徹と成功を祈願して、特にカゴユミとハハヤ(祭祀用、鹿を射る大形の弓と大蛇を射る矢)を賜い固い誓いの後出発しました。
しかしながらこの神も又天命に叛いて忠義を守らず、あろうことかオオナムチの娘のタカテル姫(高照神社、中津軽郡、青森)と結婚して先方に住みついてしまい、葦原中国を乗っ取ろうと野心を抱き八年経っても復命しませんでした。事ここに至りあらゆる手立ても尽き、最後の手段として名無しのキギス(雉・きじ、隠密)を密かに放ってアメワカヒコの動静を探らせました。
ワカヒコの屋敷の門前で、桂の大木の根元に隠れて様子を窺(うかが)っていたキギスは、その優雅な暮らしぶりに堕落しきったワカヒコの姿を見て、タカミムスビから与えられた重大な任務も忘れはて己の欲に溺れきった裏切り者に、立場も任務も忘れて唯々嘆かわしさのあまりついホロロホロロと泣いていました。(キジバトはホロロホロロと鳴く)
その泣き声を耳さとく聞きつけたサクメ(探女)が急ぎワカヒコに告げて、哀れキギスはあっけなく捕らえられてしまいました。ワカヒコはキギスの姿を見るなり、「この不届者目が、名も無き密者の分際で生意気に天の貴人を批判するのか」とばかり、タカミムスビから賜った誓いのハハヤをキギスに向けて射れば、矢はキギスの胸を貫通して天空高く飛び去り、授かった元の今宮の前に落ち下りました。
タカミムスビはこの血塗られたハハヤを一目見るなり、ケンケン(雉の鳴き声)と復命も出来ず死んだキギスの無念の思いを知り「裏切り者の暴挙を許さず」とすかさず咎(とが)めの返し矢を射返すと矢は再び飛び去ってワカヒコの胸に命中し、あえなく死んでしまいました。
これが”返し矢は恐る”という故事の由来となりました。
タカテル姫の嘆き悲しむ泣き声が父アマクニタマにも聞こえて、ワカヒコの父母は急ぎ遺体を引取ると美濃に取って帰し早々に息子を祭る喪屋(もや)を造りました。裏切り者の罪を背負ったままでは正式の殯(もがり)も堂々とは出来ないことから、仮殯(かりもがり、喪山古墳、岐阜県)を身内だけで内々に取り行いました。葬儀は親族が皆、鳥の姿に身をやつして夜っぴて行われました。
アメワカヒコは優しい鳥の身内に八日八夜惜しまれながら、たくさん仲間の待つ鳥の国へと静かに帰って行きました。
この葬儀にタカテル姫の兄タカヒコネ(オオナムチの次男ステシノ・アチスキタカヒコネ)が和歌の友達の突然の死を悼みアマクニタマの宮に弔問に訪れた時の事です。タカヒコネ(阿自岐神社祭神、滋賀県。二荒山神社祭神、日光市、栃木県)の高貴な神のごとき容姿が、今は亡きワカヒコに余りにもそっくりで、丁度それは瓜を二つに割って合わせた様に似ていました。身内の者達はタカヒコネの姿を見るなり、八年近く再会していないワカヒコが帰って来たと思い込み、喜びのあまり理性を失って「君は生きていた。生きていたんだ。」と皆タカヒコネによじかかり「八年ぶりの奇遇」と言いつつ感極まってまとわりつきました。
この予期せぬ異変に当惑し、ついに怒りが爆発したタカヒコネは、
「友と思えば遠路はるばる弔問に来たものを、我を死者と間違えるとは何とけがらわしや、腹立たしい。」と言うや、いきなり腰に帯たアオバカリ(青葉刈)の剣を抜いて喪屋を切り伏せてしまい、抜いた剣をひっさげたまま神戸(かんど・葬場の門)を立ち去ろうとしました。
この時、昔し中山道を最初に切り開いて開通させたカナヤマヒコ(金山彦)の孫娘のシタテルオグラ姫(天国玉の娘・巨椋神社、小倉神社祭神、京都府。大倉神社祭神、奈良県)は、何とかタカヒコネの怒りを和らげようと短い和歌を詠んで諭(さと)しました。
昔し私がワカ姫の居られたアメヤスカワ宮で機織をしていた頃、首にかけた御統(みすまる・ネックレス)が棚機(たなはた)の音に促されるように、胸の谷間を左右に揺れ動いたものです。今又、(貴方に会えて)私の胸の動悸は増々早まり穴珠は二つの谷間を激しく揺れ動いています。私の心を満たしてくれるタカヒコネ様
この歌を聞いた身内の者はやっと我に返るとアチスキタカヒコネが現に来てくれたことを悟り、タカヒコネも怒りをゆるめて剣を納めました。
タカヒコネはなんとか冷静を装うと正しい求愛方法を教えようと答えの歌を詠みました。
田舎者(私)がやって来た真の目的は、唯々親友の喪を訪いに来たのに、しかるに貴女は川の片淵にいて、一方的に網を張り渡して、これは女子の我儘(わがまま)です。恋愛目的で来たのではありません。ちゃんと仲人を立てて求愛して下さい。お姫様、片手落ちですよ。
この男女の恋歌は、後々までも縁結びの先例として鴨糸(かもいと・鴨居と)結ぶ古代歌曲の「雛振り(ひなぶり)」として後世まで伝えられました。
今般の前途を祝う鹿島立ちの宴(かしまだち、右(カ)大臣の国(シマ)を断つ)は、特にタカミムスビの強い決断により、驕(おご)る出雲のオオナムチを成敗する門出の決起集会となりました。
宮の境内には主基(スキ)の宮を特に新造し、ハニスキ(地)の神祭りを厳粛に取り行って後に神議(かみばかり)が再開されました。
タカミムスビの出雲征伐という固い覚悟を実行する適任者選びに議論は白熱し、やがて武断派の「フツヌシ(経津主、香取神宮祭神、千葉県)が良し」と皆の意見が一致した時、今まで高ぶる気持ちを抑えてきたタケミカヅチ(武甕槌、鹿島神宮祭神、茨城県)が進み出て大声で訴えました。
「なんでフツヌシ唯一人だけ武勇に勝(まさ)りて、我は勝らないのか」
この高き勇みのミカヅチの心意気は、即皆の感動を得てフツヌシとミカヅチの二神は出雲征伐の命を受け、供の物部を大勢引連れて鹿島立ちし葦原中国へと遠征しました。
出雲の杵築宮(きつき 現・出雲大社)に着くや二神は、宮前でカフヅチ(頭椎)の剣を大地に刺してうずくまり、威圧的な態度でなじり問いました。
「自ら誇って国を欺く行為を糺(ただ)し明(あか)さんと、我等二神は遣わされたのだ。さあ、その心は。」
「ままや、いなやや」(従うか、従わないのか。イエスかノーか)
オオナムチは、突然降って沸いたこの緊迫した状況を計りかね、先ずは宮中から帰国している事代主(コトシロヌシ、オオナムチの長男クシヒコ)に返事を聞こうと、ミホザキ(美保神社、祭神 事代主・三穂津姫)で鯛釣りをして楽しんでいる所に供のイナセハギ(伊奈西波岐神社、島根県)を急使として走らせました。
もともとコトシロヌシは、宮中での父オオナムチの独断専行が非難の的となっていることを案じて説得のために帰国していました。が、父子の間ゆえにかお互い甘えも手伝ってこの大事が父に理解してもらえず、やむなくミホザキに蟄居して時を待っていました。
又、父オオナムチにしても、長い間唯々国のため、国民の生活と幸せを願って国土経営を果敢に推し進めてきて、今は功成り豊かで文化的な国風と人望の厚さから誰称えぬ者が無い程の繁栄を謳歌している絶頂期に罪の観念など微塵もありませんでした。
しかし待った無しの事態は急を告げていました。
イナセハギはオオナムチの言いつけ通りクシヒコに告げました。
「アマテル神のお考えは如何なものですか」
この問いを聞いた時、コトシロヌシは初めてにっこりとエミス顔(恵比須様の語源)でおっしゃるには、
「我が心は常にスズカ(鈴明)にて、清く正しく美しくあります。父母にお伝え下さい。事ここに及んでホロロと泣けども私達はもう釣針に掛かった鯛も同然です。魚の様に切られ料理されるのは愚かな事です。高天(たかま・宮中)は民のエミス鯛(めでたく喜ばしいこと)です。最高にして賢くも尊い所は高天(たかま)だけで、高天を二分することは許されません。
コトシロヌシの御言のり(みことのり)
「我が父が出雲を去るならば、私も一緒に国を去ります」
コトシロヌシからの返事が届けられると、オオナムチは静かにうなずいて後、二神に向かって残る心配事を告げました。
「実はまだ我が子が一人有ります」
と言うや否や現れたのがタケミナカタ(祭神 建御名方、諏訪大社、長野県)でした。
タケミナカタはチビキイワ(千人で引く程の大岩)を高々と両腕に捧げもって曰く、
「忍び忍びに陰謀をめぐらし汚い手で我が国を奪う気か。堂々と出て来て我と力競べしてみろ」
この言葉を待っていたかの様にタケミカヅチは、大岩の如き両手をぬっと延ばすとチビキ岩を素早く奪い取り、あたかも葦芽(あしがい)の様に軽々と投げ飛ばしました。これを見たタケミナカタは恐れをなして逃げ出し、走りに走ってシナノ海(現・諏訪湖、長野県)まで来た時ついに追いつかれて、正にすわ(諏訪市の語源、長野県)一戦というその時、タケミナカタは急に畏まり全面降伏してしまいました。
「我を助けよ、この所(長野)、他へは行かじ、背かじ」と心から謝ればタケミカヅチは快く許し助けて、直ちにこの誓いを携えて急ぎ出雲に取って返すと、父オオナムチに出雲譲りの決断を迫りました。
この様にオオナムチは二人の子供達の言うままを二神に素直に伝えて全面降伏をしました。
「我が子去りにき我も去る。しかし今、我れ去るにあたり誰かまた力づくで叛(そむ)く者が無いとはいえないので、我が降伏の証しにクサナギ(草薙)のこの矛を用いて国を平定して下さい。」
と言いつつ二神に矛を丁重に捧げて後、静かに去って行きました。
後に二神は国中を狩り巡り、抵抗する者等を切りつつ帰順する者には褒美を与え、後に帰順の勇士を取り立てつつ、アメヤスカワの今宮に全員無事帰ってタカミムスビに戦勝報告を果たしました。この後コフノトノ(タカミムスビ・タカキネ)は、一件落着を見た出雲帰順に関する特別の政事(まつり)を執るため宮中に上がりました。
ここでアマテル神から論功の詔のりがありました。
「汝(なんじ)フツヌシよ、天神地祇(てんじんちぎ・アワウワ)の導きを良く守り神威(しんい)を高揚してくれた。又、ミカツチは武勇を発揮して右(カ)の国(シマ)を断ち(タチ)に成功し、武士の情けを忘れず、良く敵将を涙を持って柔軟に諭して帰順させ大功を打ち立てた。よって汝にカシマ神(鹿島)の神部(かんべ・璽・おしで)を賜う」
この時、オオナムチは配下の百八十神を引き連れて天(宮中)に昇り改めて帰順の意を表して忠誠を誓いました。その柔順な忠誠心の蔭には涙をこらえてもなお、忍びえぬ思いが去来していました。
タカミムスビが今度の不祥事に至った原因を度々問い正した時も、オオナムチは誠意を尽くして素直に答え、それはいちいち理にかなって同情に値するものであったので情状酌量により、アマテル神の詔のりによりこの件は国替えと決まりました。この時正式にツガル、アソベのアカル宮(現・岩木山神社、祭神 顕国魂 うつしくにたま神、オオナムチの別名、中津軽郡、青森県)を天恩(アフユ)により賜り、後に供の百八十神と力を合わせてツガルの国を再開発して良田を広げ再び豊かな国造りを成しとげました。
オオナムチは賜ったツガルの国にアカル・アソベのウモト宮(天日隅・阿曽部岳の大元宮)の建立を進め、その境内地の建築規模はチ(千・せん)ヒロ(一尋は1.515m又は1.818m)にも及び、宮殿の甍(いらか)は高々とそびえ、木の香も真新しい多くの棟々は掛橋(かけはし)で一体に列なり、それはあたかも緑なすアソベの岳を背景に出現した空中楼閣を思わせる佇まいでした。
オオナムチに従ってツガルに下った百八十神の新築なった家並を遠望する時、それは丁度アカル宮を中心にオオナムチを守るようにお互い助け合い強い絆で縫い合わせた壮大な服従の白楯(しらたて)を彷彿させました。国を移された御魂の意からウツシクニタマ(顕国玉神)と称えられたオオナムチは後にツカルウモトノ神(東日隅大元神)となり神上がりました。
アマテル神はホヒノ命をオオナムチの元の杵築宮(きつき、現・出雲大社)の初代祭司に定めていく久しく祭らせました。
ここでタカミムスビからオオナムチの子のクシヒコにお言葉がありました。
「汝、物主クシヒコよ。もし自国(出雲)の女性を娶(めと)る様なら国政に疎(うと)くなってしまうだろう。我が娘のミホツ姫(三穂津)を汝の妻として八十万の神々を司(つかさど)り、御孫(みまご)ニニキネを守護して奉れ」
クシヒコ(事代主)がこの時賜った淡海のヨロギの宮(與呂伎神社祭神 子守神、勝手神、高島郡、滋賀県)は、この時から薬種栽培の発祥の地となりました。クシヒコはこの地に薬用植物園を開き、千種の草々や万の木々(萬木の森、西万木の地名語源、高島郡、滋賀県)を植えて、一木一草に至るまで噛み潰し嘗めて薬効を調べると同時に分類して薬草名を定めました。
このクシヒコ領のヨロギノ宮は、代々多くの病める人々ために薬を与えて病を癒し、時には鳥や動物の病も治して古代和方の基礎を築いた尊い宮であることを知るでしょう。
ついにクシヒコの妻ミホツ姫は、念願かなって一男子を授かりました。イミナ(実名)をミホヒコと名付け、幼名をヨロギマロと称し後に三代目オオモノヌシと成りました。
ミホヒコはスエズミ(陶荒田神社、堺市、大阪府)の娘イクタマヨリ姫を妻として十八子を生みました。又、コシアジハセ(阿治波世神社、祭神 阿治波世神、所在不祥、推定鯵引山、丸岡、福井県)の娘シラタマ姫を妻として十八姫を生みました。
合計三十六人の大勢の子供達は皆天から委ねられた賜物と、常に身を浄めて大切に養育して皆立派に成長させました。アマテル神はミホヒコの子を守り育てる勝れた行為を誉めて詔のりしコモリ神(俗に子守明神と呼ばれる、吉野水分神社、奈良県)の神名を賜いました。
コモリ神は毎年蝉(せみ)の鳴き始める六月末になるとセミノ小川(瀬見の小川、糺すの森、賀茂御祖神社、京都市)で禊(みそぎ)をして茅の輪をくぐって身を糺しました。この祓いの儀式が後々までも国民の長寿を得る茅の輪くぐりとなりました。
三世(ミヨ)モノヌシ御子の名の歌
カッテ神(勝手神社、吉野山、奈良県)世嗣(よつぎ)得る歌
葛城山に住むヒトコトヌシ(一言主神)が、スエツミ(隅祇)の娘ヤスタマ姫を娶り生まれた子の名はカツキマロで、実名をヤスヒコと言う。ヤスヒコは成長後道を深く欲し、ミホヒコ(子守神・右大臣)とココトムスビ(春日殿・左大臣)の家伝のアメナルミチ(天成道)を授かり、後にイサワのオオウチ宮に仕えている時、アマテル神からカッテ(勝手)神の神璽を賜りました。これも世嗣の歌の道であります。
終り
- 出典
- ホツマツタエ(国立公文書館蔵)
秀真(ほつま)政傳紀(和仁估安聰訳述)
- 訳
- 高畠 精二