ヤマトタケ 白鳥の挽歌

 景行帝四十一年、春。
 ヤマトタケの君は険しい木曽路をやっと抜け出て、妻ミヤズ姫の待つオワリムラジの館にたどり着きました。今、君はこの家でようやくくつろぎの時を過ごし、すでに一ヵ月を超して滞在しました。

 妻のミヤズ姫は『都から帰って実家で待つように』と、君から事前に連絡を受けてお待ちしていました。姫にとっては、君のご到着が遅れているため、今か今かと気をもむ毎日でした。
 君がお着きになった丁度その日は、姫にとってはつらい生理日にあたってしまい、知らせを聞いてうれしさのあまり飛び出してのお出迎えも、寝巻き姿のままでした。ふと君は姫の着物の裾に月経の染みを見て即座に短歌を作って知らせました。
久方の 天(あま)の香具山 遠鴨(トガモ)より さ渡り来る日
細手弱(ホソタワヤ) 腕(かいな)を巻(ま)かん とはすれど
さ寝んとあれば 思えども 汝(な)が着(き)ける裾(そ)の
月経(つきた)ちにけり
 姫はすぐに返歌をされました。
高(たか)光る 天(あま)の日の皇子(みこ) 休めせし 我が大君の
新玉(あらたま)の 年が来経(きふ)れば 宣(う)えな宣えな
君待ち難(がた)に 我が着ける 襲(おすい)の裾に
月経(つきた)たなんよ
 ご滞在中の事です。君がおっしゃるには、
 「今、オオトモノタケヒの治めるサカオリ宮(酒折宮)は、天孫ニニギ時代のハラノ宮(蓬莱宮)で、未だに荘厳なあのたたずまいは立派なものだ。我が願い、あのままの宮を移して姫と一緒にこの地で楽しみたいものだ」
 ムラジはその願いを聞くとただちに、
 「臣(トミ)が現地に行って、取り敢えず写生をしてまいります」と答えると、君は大喜びされました。
 ムラジは早速富士山の麓のサカオリ宮に出向いて、宮の絵を精密に書き写して帰りご報告しました。

 ヤマトタケはイブキ山に荒神(あらふるかみ)がいるとの知らせを聞くと、居ても立っても居られず情熱の赴くまま一人退治に向いましたが、うかつにも姫の部屋に剣を解き置いたまま忘れて出かけました。この剣こそは、先祖神のソサノオノ命(素戔鳴命)が八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から取り出したアメノムラクモノ剣(天叢雲剣)で、ヤマトタケを蝦夷(えみし)が放った野火から守り、クサナギノツルギ(草薙剣)と名を変えた守護の剣でした。
 今度はイブキ山の神を軽んじて和弊(にぎて)も用意せず神路(かみじ)に入りました。ヤマトタケは通りすがりの山路で、イブキ神がオロチ(大蛇)に化けて横たわっているのもつゆ知らず、
 「これ汝、おまえはどうせ神の召使いだろう。取るに足らんやつだ」と踏み越えて行き過ぎたところ、イブキ神は氷柱(つらら)を行手に降らして阻み、光を奪って闇で被いました。これに負けじと強行してやっとの思いでこの難局を脱出したと思う間もなく、今度は目眩(めまい)がしだして燃えるような高熱に犯され苦しめられました。この近くの泉で熱を醒ました処をサメガイ(醒井泉)と言います。
 この頃から足が痛むのに気がつき、まずオワリ(尾張)のミヤズ姫の所へ向いますが、痛みで足は鉛のように重く、一歩一歩が命を削られる苦しみとなり、やっとの思いでミヤズ姫の待つ家の近くまでたどり着きながら、立ち寄る気力も失せてイセ路へと道を変えて進みました。

 ここオズ(尾津)の一松(ひとまつ)は、昔しヤマトタケが東国(あづま)へ遠征の途次、この松の下で食事した時に剣を解いて根元に置き忘れたまま旅立って、今こうして剣に再会すると昔のままに一途に持ち主の帰りを待っていてくれたんだなあ、忠義な松よ。
 君は松に誉(あ)げ歌を送り謡いました。
置忘(おわす)れど 実直(ただ)に迎える 一つ松 あわれ人待つ
人にせば 衣着(きぬ)きせましを 太刀佩(は)けまじお
 この様に慰みを作っては、なんとか進みましたが、足には激痛が襲い二重(ふたえ)の足も三重に曲がる苦痛に耐えて歩いたので、この地を三重村といい、杖をついて進んだツエツキ(杖衛坂)坂も過ぎ、やっとノボノ(野褒野)までたどり着いた時は、自力で歩行するのも限界に近づき、君はここで我が身が重病であることを悟りました。

 この時君は蝦夷(えみし)の捕虜五人を解放してウジ(伊勢)に送り、伊勢神宮の神臣(かんおみ)のオオカシマ(大鹿島命)の添人(そえびと)にしました。
 キビタケヒコはヤマトタケから父帝(みかど)に託された緊急の手紙を携えて急ぎ都に参上して、手渡しました。
 その手紙には、
 「今、貴方の息子のハナキネが父帝(ちちみかど)に心から申し上げます。臣(トミ)の私は君の詔を受けて、東夷征討(アズマウチ)に遠征して、天の恵みと君の偉大なご加護を受けて無事東夷を服従させてまいりました。今は反逆者もなく皆天朝に従い東国に平和が戻りました。私は今こうして君の坐す都への路を引き返してまいりましたが、私の命は夕暮れの落日同様、余命いくばくもございません。乞い願わくはいつの日か又、自ら父上にお目にかかり復命したいと念じております。明け暮れ、戦場の岩根子に伏せて短い生涯を過ごし、心から語り合える人もないままに死んでいくのが無念でございます。次にもしお会いできる日があったなら、一人苦しみ平和を願い続けた私の思いの丈を聞いていただきたく存じます。一度でいい、一目お会いしたかった。ああ天命かな」
 ヤマトタケは父への手紙を染めている時、ここで一旦手紙を書くのを止めていわく、
 「東西の征伐に成功して喜んだのもつかの間、我が身を亡ぼしてしまった。思い返せば彼ら従者達を一日も休ます事もなかった」と言いつつ、ナナツカハギに命じて、軍資金の花降(はなふり砂金)を全部皆に分け与えた後に歌を詠みました。

 「熱田の神と早やなると」
 のたまうと、斎浴(ゆあみ)を済ませ衣を新しく替えて南を向いて正座していわく、
 「人間死に臨んでの辞世の歌はこれなり」

 熱田宣(あつたの)り
辞(いな)む時 東西(キツ)の鹿路(しかじ)と 父母(たらちね)に
仕え満(みて)ねど サゴクシロ 神の八相(ヤテ)より 道受けて
生まれ楽しく 昇天(カエサ)にも 誘(いざな)い千鳥足(チドル)
掛橋(かけはし)を 登り霞の 楽しみを 雲居に待つと 人に答えん

 (辞む時を迎えて、東西の勅使(サオシカ)の役割も父母への孝も満足ではなかったが、天上のサゴクシロ(精奇城)の八神から八相の道を受けて、人生も楽しく送りました。天国に召される時にも、神の誘いのままに心地良く千鳥足で掛橋(かけはし)を登り、霞の彼方に楽しみを求めて、雲居に待つと人に答えます)
 ヤマトタケはこの熱田宣り(あつたのり)を何度も繰り返して歌いつつ、最期には突然目を閉じて神上がりました。
 側近の者達はなす術(コト)も無くて、葬送の営をしました。この歌はオワリのミヤズ姫の元へと、又帝(みかど)へはキビタケヒコが上京して遺文(ノコシフミ)を奉げたところ、天皇(スベラギ)は政務も落ち着いてできない程の悲しみ様で、何を食べても味もなく、終日(ひねもす)嘆いて宣うには、
 「昔、クマソ(熊襲)が背(そむ)いた時は、まだ少年らしい総角(あげまき)姿のハナヒコだったのに、みごと仇を征伐することができた。本来なら左右の臣として私の近くに置いて補佐させたかったのに、東夷(ホズマ)を討たす人材がないばっかりに、私は辛い決断をしてコウスを仇の地に遠征させてしまった。明けても暮れても無事帰る日を待ち続けていたというのに、これはいったい何たる禍(わざわい)ぞ。親子の縁(ゆかり)を温める間もなく突然天国にお召しになるとは。今後いったい誰に私の政務を嗣がせれば良いというのだ」

 君は諸臣、民(もろとみ、たみ)に詔りして神酎浴かみおくり)を荘厳の内にもしめやかに取り行うことにしました。
 その葬儀の時の事です。
 ヤマトタケの遺骸(オモムロ)が白い鳳凰(イトリ)に化けて空高く舞い上がったのを見た人々は不思議に思って陵(みささぎ)の御棺(ミヒツ)を調べたところ、君の冠(かんむり)と笏(サク)と御衣裳(みは)だけが残っていて、死体はすでに消えて白凰(シライトリ)となって、飛び去った後でした。皆で追いかけ尋ねて行った所、ヤマト国(大和国)のコトヒキ原(琴弾原)に尾羽(オハ)が四支(ヨエダ)置き残されていました。次にカワチ(河内)のフルイチ(古市)に又、四羽(ヨハ)落ちてきたので二箇所に陵(みささぎ)を築いて祭ったところ、白鳥は(しらとり)はついに天高く舞い昇り雲の中に隠れてしまいました。白凰(シライトリ)の尾羽(オバ)は、あたかも神の世のヨハキシ(世箒花)の様に散り広がり、正に世の乱れを掃き清める垂(しで)の様でもありました。

 崇高に国の東西の乱れを治めて後に、美しく死んでいったのも実は何かの天命かもしれません。
 ヤマトタケが伯母より賜わったクサナギ(草薙)の剣を、ミヤズ姫の家に置いたままイブキ山に登り足を痛めてイセ路に向かった時、自分の家族を心配して、都に思いを馳せて歌った十九歌(ツヅうた)は、

愛(は)しきやし 我家辺(わきべ)の方ゆ 雲居(くもい)立ち雲

 この遺歌(のこしうた)は、自分の皇子(みこ)達や親族(うから)に折り合いの十九(ツヅ)は館(やかた)で、出で立つは旅館(たびや)に会える客人(マロビト)と思いなさいと、迷いを残さぬように諭しの歌で、深き君の御心の導きです。

 ノボノでいよいよ神上がられる時に、ヤマトタケはミヤズ姫に歌を遺(のこ)しました。
アイチダ(愛知田)の 乙女(おとめ)が床に 我が置きし
イセの剣の 立ち別るやわ
 この歌は妹背(イモセ)の道は連綿と続いて、たとえ一度は我が剣の様に別れたとしても、吊(つり)の緒は決して切れはしないで連なっているのだといゆう神の教示です。
 この歌を押し戴いて詠んだミヤズ姫は、突然のヤマトタケの死を信じられず、悲しみのあまりに息も絶え絶えに悶え泣き、生きているのがやっとというご様子でした。

 父のムラジは、ハラ宮(蓬莱宮)を写した絵を持ち登って、帝(みかど)に若宮(ヤマトタケ)の希望をありのままを申し上げて許可を得て、アイチダ(愛知県・あいちあがた)にハラ宮と同じ様に美しい宮殿を造営し竣工させました。

 完成を祝って帝は詔をされました。
 「タタネコ(大直根子)は斎主(いわいぬし)として勅使人(おしかど)を務めよ。ムラジ(尾張連)は神主(かんどの)、皇子全員は神幸(みゆき)の備(そなえ)に当たれよ」
 ヤマトタケの神渡御(かんとぎょ)は厳かに進められて、コトヒキハラの陵(みささぎ)に落ちた白鳥の尾羽(オハ)四枚と、フルイチの陵の尾羽四つも共に持ち来たり、ノボノの君の冠(カフリ)、笏(サク)、御衣(ミハ)の三点も御霊笥(みたまげ)に入れて一緒に白神輿(しらみこし)に納めました。

 ヒシロの御世四十四年三月十一日(ヤヨイソヒ)
 いよいよヤマトタケの神幸祭が初まり、黄昏時から神輿がノボノを発って東のアイチダの宮へと進みました。大勢の司(つかさ)達は松明(ダビマツ)を赤々と揚げて長い道程(みちのり)を悲しみにゆらめきながらどこまでも続き、六日目の夜中に新装なったハラ宮のオオマノ殿(蓬莱新宮大真殿)に神輿が正座に安置されました。
 この日のミヤズ姫は生前君にお仕えしたと同じ様に宮仕えして、自ら切り火をおこして神饌用のご飯を炊いて平瓮(ひらべ)に盛って戴(いただ)き持ち、先導して大真殿に入って皆が揃うのを待って、神前にお供えして申し上げました。
 「この御食(みけ)は昔、君がイブキ山からのお帰りを待って捧げるつもりの昼飯でした。あの日に自ら食事を炊(かし)いでお待ち申し上げたのに、どうして私の元にお立ち寄りくださらず、遠くへ行ってしまわれたのでしょう。私も君の後を追って行くべきだったと今は千々(ちぢ)に悔やまれてなりません。今宵には又、君は私の元に神の君となってお帰り下さるのですね。さあ私が作った食事をどうぞごゆっくりお召し上がりください。君が現世に在られるままの、アイチダに待ち続けた私の『君が日霊飯(ヒルメシ)』でございます」
 姫は三度に及び宣(のり)して、涙を落としました。

 夜空は十六夜月(イザヨウツキ)が明るく照らし透きとおり、どこからともなく白凰(シライトリ)が飛(ま)い来りて御食(みけ)を食み、再び飛(ま)い上がって白雲の彼方に消え失せた時、神の声が十九歌(ツヅウタ)で答えられました。
在りつ世の 腹満(はらみつ)つ欲しき 霊在(チリ)を昼飯(日霊飯)
 五十三年八月(イソミホホズミ)、君の詔がありました。
 「顧(かえ)り思えば悲しみが一日と止むことはなかった。そうだ、コウスが平定(むけ)た国々を巡って旅をし、御霊(みたま)を鎮めようと思う」

 巡幸は先ず伊勢に詣でてからオワリのツシマ(尾張津島)に至った時の事です。
 ムラジが出迎えに伺うと、君は我が子に再会できたようにお喜びになり、一緒にアイチダのオオマの宮(現・熱田神宮)に入り御手ずから製った和弊(ニギテ)を御前に立てていわく、
 「親子でゆっくりと過ごす縁にもめぐまれないまま、先立ってしまったお前をどうしても忘られず、今こうして自ら会いに来ました。こうして和弊を捧げましょう」と、長い時間神の前に留まり、悲嘆に暮れる様子は痛ましいお姿でした。
 君はその夜ツシマモリ(津島杜)にご滞在になりましたが、その夜の夢の中に、ヤマトタケが再び白凰(シライトリ)となって現われていわく、

 「天照神(オオンカミ)がソサノオに対して『如何(いかん)ぞ、国望む』と言いつつ、天の宣(あめののり)をして国神ソサノオをお教え諭しました。
天(アメ)が下(シタ) 和(やわ)して巡(めぐ)る 日月(ひつき)こそ
晴れて明るき民の父母(たら)なり

 (この天宣(アメノリ)は、国の指導者たる者、天下あまねく平等に巡る太陽や月の様に晴れて明るき民の父母(タラチネ)と慕われるようでなければならない。との諭しです)
 しかしスサノオは、この教えが解らず、ついに宮中を追放されて下民(シタタミ)に落ちてしまいました。八年間の放浪の末にイブキ神に拾われ、共にヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した功績によりヒカワ神(氷川神)の称号をもらって、再び宮中に復帰してやっと八重垣(ヤエガキ)の臣(トミ)に帰り咲くことができました。

 しかし天孫ニニキネは、アマテル神の精神を持って国を開拓し民を豊かに国を平和に導いたので、ホツマ国を与えられて天君(アマキミ)となられました。  ソサノオは、天君(アマキミ)となったニニキネの英知が羨ましくて、己も英知と勇気で国を開き君に貢献したいと願い、仮の親子として父(景行帝)の子(ヤマトタケ)となりこの世に帰ってまいりました。
 東西の蝦夷(エミシ)と熊襲(クマソ)を平定して、父のお側に帰った今、神の心は安らぎ静かでございます。ここツシマモリの社で君に目見(まみ)えることができ、共にこうして熟瓜(ホゾチ・熟したマクワ瓜)をいただいていると、苦しめられたあの熱もうそのように癒えました。ああ、なんと父母の御心は深く永遠でございましょうか」

折り返し歌
我が光る 蓬莱参錦織(ハラミツニシキ) 熱田神(アツタカミ)
本津島衣(モトツシマハ)に 織れるか氷川(ヒカワ)

(実は私ソサノオは、今はきらびやかな蓬莱参錦織・ハラミツニシキで飾られた神(ヤマトタケ)に納まっていますが、本当の私は貧しい氷川(ヒカワ)の放浪者に似つかわしい綴れ布を織ってもらいたかったのです)
 三度この願いを述べると神は、いやしい賤(しず)の姿に身を変えて雲隠れしてしまいました。

 君は夢から覚めてのたまわく、
 「これは、神の告げだ。『我は賤(いや)しき氷川神、望みを成した今、本(もと・氷川)に帰らん』と親子の恵みに感謝して去っていった。これこそ私の迷いを悟(さと)す神の啓示なり。昔ハナヒコ(ヤマトタケ)がのたまわく、
人は神 神は人なり 名も誉(ほまれ) 道立つ徳(のり)の
神は人 人素直(すなお)にて ホツマ(秀真)行く 真(まこと)神なり

(神は本来人であり、また人は神である。
手柄を立て、名を上げ、人の模範となる生き方を教え示した者が、神と崇められる。
人は素直(正直)に、秀でた真のホツマの道に従えば、おのずと神の路を行くことになる。)
 君は夢の中で神の告げを受け、アイチダ(愛知田)に建つ蓬莱新宮大真殿(ハラシングウオオマドノ)に祭る神名を熱田神(アツタカミ)と名付けました。

終り

出典
ホツマツタエ(国立公文書館蔵)
秀真(ほつま)政傳紀(和仁估安聰訳述)
高畠 精二