アメヒボコの来朝

 ミマキイリヒコ(崇神天皇)の御世のことです。

 君が新都をミズカキ宮に定めて39年目に、ヒボコなる外国人が初めて船に乗りハリマ(播磨)にやってきました。ハリマに一時停泊した後船出してアワジ(淡路)のシシアク村に至ります。

 君はオオトモヌシ、ナガオイチの両大臣を急ぎハリマに遣わして、はるばる遠国からやってきた理由を質問させます。アメヒボコの答えは、「私はシラギ(新羅)国王の王子です。名はアメヒボコと申します。国にある時、東海の日出ずる国には、神を崇めて正しい政(まつり)を執る聖(ひじり)の天皇(きみ)が居られ、国は美しく整って民も豊かに暮らしていると聞き、弟のチコに国を譲った後、敬愛する天皇(おおきみ)に服(まつら)うためやってきました。どうか私の願いを君にお伝え下さい」

 二人の使者が都に帰って、アメヒボコの話しを君に報告します。
 君は諸臣と議(はか)った後、アメヒボコに詔りし、「ハリマのイテサ(出浅)村とアワジ島のシシアワ(穴粟)村の二村を賄うから、汝の好むように暮らすが良い」と申されました。それを聞いたヒボコが恐れながら申すには、「もし私の我がままがお許しいただけるならば、まず先にこの美しい国土を巡り見てから後に、自分の住む土地を決めたいと思います」と、願い出ました。
 君のお許しを得たヒボコは、早速ウジ川(宇治川)を船で遡り、アワウミ(近江)のアナ(吾名)村にしばらく住んで、山紫水明の近江を訪ねて巡り、良質の陶土(とうど)に恵まれた鏡山の麓のハザマ谷に供や従者の陶人(とおじん)を居留させました。

 村人達は温かく異国の人達を迎え入れたので、ここがこの者達の安住の地となりました。
 アメヒボコは、後に彼等をこの地に残して一人旅を続け、ワカサ(若狭)の国に入り、西に転じてタジマ(但馬)に至り、この地でイズシマ・フトミミとゆう豪族の娘、マタオオ姫を娶りました。生まれた子の名をモロスケと名付け、モロスケはその子ヒナラギをもうけ、ヒナラギはキヨヒコをもうけ、キヨヒコの子がタジマモリです。後タマキ宮(垂仁天皇)三年、タジマモロスケ(但馬諸助)は臣(とみ)の位を賜わり昇殿しました。

 このアメヒボコが来朝の折り献上した宝物は、ハボソ玉、アシタカ玉、ウカガ玉、出石小刀(いずしこがたな)一口、出石矛(いずしほこ)一枚、日鏡(ひかがみ)一面、熊神籬(くまのひもろげ)一具、出浅太刀(いであさたち)一振りの併せて八種にのぼり、但馬社(やしろ)の蔵に納め祭られました。

 八十八年七月十日、イソサチ君の詔があり、
 「昔、シラギの王子ヒボコが来朝の時持参した宝物が但馬に納めてあると聞いているが、永い年月の経った今、なぜか急に見たくなった」と言って、ヒボコの曾孫キヨヒコに勅使を遣わしました。タジマに居たキヨヒコは急ぎ参上し宝物を奉りました。ハボソ、アシタカ、ウカガ王、出石小刀(いずしこがたな)、出石矛(いずしほこ)、日鏡(ひかがみ)熊の神籬(ひもろげ)一具、出浅(いでしあさ)の太刀(たち)、この八種の内、出石小刀だけはなぜか思い入れがあり、なんとか自分の元に残しておきたいとの思いにかられて、そっと袖の中に隠しておき、太刀だけを佩(は)いて昇殿しました。

 天皇はこの一件に気付かず、キヨヒコの早い対応をたいへん喜び、念願の宝物を興味深げに御覧になった後に、キヨヒコに御酒(みき)を賜わりました。杯の数を重ねているうちに、キヨヒコはついに気がゆるみ、酒を呑もうとした時、肌身に付けていた小刀がすべり落ちて見つかってしまいました。君は目ざとく見つけると、「それは何ぞ」と問いかけます。事ここに至っては特に大切な物とはいえ、これ以上隠しとうせず、潔く献上しました。君はまたいわく、「その宝は、身から離せないほど特別なものか」と話されました。いずれにしろ全ての宝物は君に奉られ、しっかりと宮中の蔵に納めました。後に蔵を開いてみると小刀が失われているのに気付き、君は再びキヨヒコを召して問いただされ、「もしや、失われた小刀がお前の元に帰っていないかね」

 キヨヒコが答えて申し上げるには、「昨年秋の黄昏時のことです。不思議にも小刀(こだち)が自然に帰ってきましたが、翌朝再び失せてしまいました」
 この話を聞いた君は衣を正して畏(かしこ)まり、二度とこの件に関して聞きませんでした。実はこの小刀は自ら淡路島に飛んで行き、土地の人々から神として崇め祭られていました。

 皇太子イソサチは、御年四十二才の春一月元旦、皇位を継承して即位しイクメイリヒコ(垂仁)天皇(あまきみ)となられました。君は生まれつき実直で、心は常に清く正しく秀でて、決して奢ることなく優しい性格でした。

 翌年春二月に、サホ姫を中宮に立てて、新しく都をマキムキ(纒向・まきむく)の地に遷し、タマキ宮と名付けました。
 十二月、サホ姫との間に生まれたホンヅワケの皇子は、なぜか生まれつき口をききませんでした。この年ミマナ(任那)王は、ソナカシチを使者に遣わしイクメイリヒコの初の御世を祝って貢ぎ物を献上しました。
 君は、ソナカシチに天盃を賜わり、ミマナ王には五色(いついろ)の数峯錦織(かずみねにしき)と紋綾織(もんあやおり)を百匹(ももは)を贈り物として賜わりました。又帰路は武勇に勝れた、名立たるシオノリヒコの記(しるし)の幟(のぼ)りを船に立てて進んだので、シラギ人の妨害も無く、無事に海路は開かれました。

 四年九月一日、皇后(きさき)の兄サホヒコが、サホ姫に突然こんな問いかけをしました。
 「妹よ、この兄と、お前の夫の天皇とどっちが好きかね」と。后(きさき)はつい、「兄です」と答えると、「お誂(あつら)え向きだ。今お前は色気で夫に仕えているが、色なんぞいずれ衰えて捨てられるがおち、この兄との仲は永遠さ。願わくば、我とお前が組んで天下をとれば、枕を高くして寝られ、いつまでも良い夢を見られるぞ。我がために天皇を殺してくれ」と言うや否や、紐刀(ひぼがたな)を懐から取り出して強引に授けました。

 この時、サボ姫は半ばたじろぎつつも、兄のこの恐ろしい企てを止めさそうと、必死に諌めますが、物にとりつかれた兄の狂った心根(こころね)をどうにも正せませんでした。自分の非力を悟った姫の心はわななき、罪の意識に苛(さいな)まれて、すでに諦めの境地をさまよっていました。放心して言われるままに紐刀(ひもがたな)を衣の袖中(そでうち)に隠し持ったその時から、兄の心を嘆き悲しみ、涙を流して思いとどまるよう哀願する暗い日々を重ねました。

 翌五年、緑に薫るみな月(六月)一日を迎えます。
 君は久方ぶりに御幸をされ、クメの高宮で皇后(きさき)の膝を枕に昼寝をしておられました。
 皇后はこの時、ふと、兄の思いを果たすのは今だと思ったとたんに、涙がとめどなく流れ出て、君の顔に落ち下りました。この時、君は夢からさめて、「今、私の夢に、錦色の小蛇(おろち)が首にまとわりつくと、急にサホ川の彼方から雨がふりだし、私の顔を濡らしたのは何のしるしだろうか」と、何も知らずにお尋ねになりました。皇后はもうこれ以上隠しとうせず、わっと泣き伏し転(まろ)びながら、兄の企みの一部始終を打ち明けました。

 「君の優しいお恵みにも背くこともできず、告げれば兄を滅ぼすことになり、もし告げざる時は、国を傾け大事となり、もう恐ろしくて悲しみのあまり、血の涙を忍びつつ日を重ねてまいりました。私を信じ切って膝枕でお休みの君に対して、狂人でもないのに、悪魔の企みに手を貸そうと思っただけでも、申し訳なくて涙を袖で拭こうとした時、君の顔に溢れ落ちて濡らしてしまいました。

 君の夢の答えは、まちがいなく兄の裏切りでございます。オロチはこれですと、紐小刀(ひぼがたな)を取り出し見せると、君は即座に詔して、近県に勢力を持つヤツナダにサホヒコを討ちとるよう命じて兵卒を差し向けました。
 一方サホヒコも、この一大事をすばやく察知して兵を集めると稲城(いなぎ)を築き、堅固に守ってなかなか降伏しません。戦いは一進一退を繰り返し、長期戦にもつれ込む状態です。皇后の心は間(はざま)にゆれて悲しみを増し、「私はたとえこの世に生きながらえたとしても、身内の兄一族が滅んでしまっては、何の生き甲斐がありましょう」と言って、皇子(みこ)を抱いて稲城に入れば、詔り、「皇后(きさき)と皇子(みこ)を出しべし」と、いえども出さず。

 将軍ヤツナダは最後の手段に打って出て、城に火を放ち火攻めにすると、炎の中から皇后が先ず皇子を乳母に抱かせて城を越え出て、君に申すことには、「兄の罪をなんとか逃れさそうと、私と我子は城に入りました。が、今では兄と私は共に罪があることを知りました。たとえ私が死んでも君の御恵(みめぐみ)は決して忘れません。どうか私の後見には、タニハチヌシの五人の女性を入内させてください」

 君のお許しが出るとまもなく、城は炎を吹き上げ崩れ落ちました。
 サホヒコ軍の兵卒が皆逃げ散った後に、サホヒコと皇后は炎の城中で焼け死にました。
 一件落着の後、君はヤツナダの功を褒め、賜う名は、タケヒムケヒコです。

 二十三年九月二日、詔り、「我が子ホンヅワケは、年すでに二十二才にもなって髭が生えているというのに、未だに子供のように泣きいざち、物も言わない。いったいこれは何故なのだ」
 諸臣は議(はか)って、ヤマト姫にホンズ皇子(みこ)が物を言うように、神に祈らせました。

 十月八日、君はホンズワケ皇子を供なって高殿に立たれ、秋の景色を楽しまれました。その時です。近くに侍るホンズワケが空を飛ぶ鵠(くぐい・白鳥)を指していわく、「これなにものや」と、尋ねました。
 君は驚きたいそう喜んで、「誰かこの鳥を取り得んや」と触れると、ユカワダナが、「臣(とみ)、これを取ってまいります」と進み出ました。君いわく、「もし鳥を得たらば、褒めてつかわす」と励ましました。

 ユカワダナは、鵠(くぐい)が飛び去った彼方を追い訪ねて、但馬路(たじま)を行き、出雲(いずも)に至り、ウヤエ(宇夜江)の海岸でやっと鳥を捕えて、十一月二日に帰京し、ホンズの皇子(みこ)に奉りました。  ホンズワケは楽しそうに鳥と遊び戯れて、自然に物を言うようになり、君はユカワを褒めて、トリトリベ(鳥取部)の姓名(かばね)を賜いました。

(垂仁天皇)
天鈴暦 六百八十九年 春正月(一月一日)
実名  イソサチ 年四十二歳
    イクメイリヒコ(活目入彦天皇)

 第十一代垂仁天皇(イクメイリヒコ・実名イソサチ)は即位二年目キサラギ(二月)に新都をマキムキ タマキミヤに遷都しました。
 御世七年目の事です。ある大臣が天皇に申し上げるには、「タエマノ・クエハヤ(当麻蹴速)という大怪力の者がいて、日頃得意気に語るには、「我は地金を延ばし、角を折る大力だ。」最近、特大のカナユミ(鉄弓)を造らせて得意になり、いつも寝物語に自慢して、「これを踏み張る我が力を見よ、世に我と力競べする勇士はおらんのか。このままいたずらに死にたくない」等とひたすら嘆いているそうです。これを聞いた天皇は早速臣下の者たちに詔りし、「クエハヤ(蹴速)と力競べする力持ちはおらんのか」

 すると一臣が進み出て言うには、「それは出雲の勇者ノミノスクネ(野見宿禰)です。」
 君は早速臣下のナガオイチに命じてノミノスクネを呼び寄せると、ノミノスクネも喜んで早々と、「明日力競べを決行」と神の法(のり)が下りました。急の事とてマキムキのスマイ(天皇お住まい)の里にハニワ(埴輪—土を盛って輪を作った土俵)を造り、タエマはキ(東)より、ノミはツ(西)に両人相立ち合い、お互い足を上げ蹴合えば、ノミが優勢でクエハヤの脇(わき)の骨を踏み砕き、又、腰を踏み潰し殺してしまいました。その時君は、団扇(うちわ)を上げて大音響でどよませば、大臣達も皆歓喜の声を上げてノミノスクネの勝利を祝福しました。

 ノミノスクネは褒賞にクエハヤのカナユミ(鉄弓)及びタエマ国の領地を賜り、同時にクエハヤの妻と家財もみな賜りましたが、嫡子にはめぐまれませんでした。ノミは勇士ユミトリ(弓取)と称えられ生涯を終えました。

語源
出典
ホツマツタエ(国立公文書館蔵)
秀真(ほつま)政傳紀(和仁估安聰訳述)
高畠 精二