カンタケ・都鳥の歌
神武の御世
日本初代の天皇は、神武天皇とされています。その神武天皇が認める天皇の大元といえば、天孫ニニギ(ニニキネ)です。ニニキネは、その生涯を新田開発に捧げます。
その頃、一部の湿地帯や川下の限られた土地での稲作を、今日見られるような近代的大規模な水田に全国展開します。国民の食糧も豊かになると自然に人口も増え国力も上がって、政治も安定し永く平和が続きます。アマテル神は、御孫(みまご)ニニキネの功績を大層お誉めになり、御祖神の精神の再来であると喜ばれて、別雷天皇(ワケイカズチアマキミ)という称名(たたえな)をお与えになりました。この名前は、災いの元である雷を光と水に分けて制御し、その水を水田開発に活かして国民の生活を豊かにし国を繁栄に導いたという意味を込めたものでした。この栄えある実績に対して、アマテル神から直々に授かったのが、三種神器です。
この度、カンヤマトイワワレヒコ天皇の即位式に先立ち、急いで神儀(かみばかり)が開かれました。本来、太上(だいじょう)天皇が居られて三種神器を御手ずから、君と左右の臣にそれぞれ分けて授ける習わしでしたが、今は先君のウガヤも神上がられて居られないので、その式次第と役割分担を相談するためでした。
君と左右の大臣を中心に諸神が協議したところ、皆異口同音に答えるには、
「日の神の使者はミチオミに。月の使者はアタネなり。星の使者はアメトミに」と。
アメトミは今度特にイシベ(司祭)の姓を賜わり、禊(みそぎ)をし身を清めて晴れの儀式に臨みました。
時は正に橿原(カシワラ)の天皇の御世(みよ)元年、年はサナト(辛酉・しんゆう)の初日に、天皇は初めて新築なった御正殿にお立ちになりました。諸臣は殿に昇って新年の寿(ことほぎ)を君に捧げました。続いて、ウマシマジが昇殿して、十種の神宝を君に奉りました。
この十種神宝(とくさたから)は、天孫ニニキネの兄のクシタマ・ホノアカリテルヒコが天神(あまきみ)から授かった御宝で、アスカに都を置き大和を治めてきたニギハヤヒ王朝の正統制の証しでした。
次に、カスガの臣アメノタネコは、新年のお祝に、偉大なる神代の古事来歴を紀(ふみ)に記して奉りました。
7日の七草粥も済み、15日にはとんど焼きと粥占(かゆうら)の神事も無事行われた後、いよいよ21日、宮中で即位式が盛大に挙行されました。
アメトミは14日、式に先立ち先代のウガヤ時代からずっと京都の賀茂別雷(ワケズチ)宮に預けてあった八垣の剣を持ち来り、アタネは河合(カワイ)宮(下賀茂神社)に祭っておいた鏡を一緒に持って上京しました。
君は高御座(たかみくら)に厳かに入られ、九重の褥(しとね)を敷いてお座りになりました。左大臣のクシミカタマは、二重の褥を敷いていました。
ミチオミ(日の臣)が都鳥の歌を静かに、やがて朗々と唄い始めました。君と臣は、褥をお降りになって正座し直し、お身を三重に折ってうやうやしく聞いておりました。
この歌は、正に皇孫(こうそん)ニニキネの三宝(みくさ)の授受の様子を彷彿させるものでした。
歌が終わると、日の臣ミチオミは厳かに神璽(しるし)の御筥(はこ)を天皇に奉り、月の臣アタネは鏡をアメタネコに授け、星の臣アメトミは八垣剣(やえがき)を捧げ持ってクシミカタマに授けました。
他の臣や大勢の司達はそれぞれ言祝(ことほぎ)を済ませた後に、全員は万歳(よろとし)を何度も何度も唱え、神武の御世を称える歓喜の声は、天地を永く震わせました。やっと落ち着いた頃合いをみて、御鏡を中宮のイソスズ姫にお預けになり、八重垣剣(やえがき)は、后のアヒラツ姫にお渡しして、神璽は後に、君自ら肌身離さずお持ちになりました。
この三種(みくさ)は、高く掲げられ、皆三拝してから丁重に内宮(うちつみや)に一旦納めました。
これらの儀式は、皇孫ニニキネの即位そのままに再現されて、この御宝(みたから)を納めた所を内宮(うちみや)といい、又、宮中でも内々と呼んで尊ばれました。
翌日には、三飾り(みかざり)を国民にも拝観させて、君・臣・民(きみとみたみ)一体となった都鳥は、君が代の永からんことを祝福しました。
この年11月半ばの冬至の日には、いよいよ神武(カンタケ)の一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)が厳粛に行われました。
君は天の悠紀(ゆき)宮と、地の主基(すき)宮を仮設して、元明(もとあけ)の四十八神をお祭りして、天神地祗に祈ると共にアマテル神を天からお招きして、国民には図りしれない神事が夜もすがら執り行われました。
この様に、晴れて神々との契りも成立して、天・地・人の信任を受けた天皇としてここに正式に即位されました。
この大嘗祭での臣達の役割は、先ずアメタネコとクシミカタマが左と右の大臣でした。御食供国政奉上臣(みけなえくにまつりもうすおみ)のウマシマジは、物部(ものべ)等と一緒に宮城外守護の任務につきました。ミチオミとクメとは力を合わせて御垣守(みかきもり)として、宮城内の護衛にあたりました。神への祝詞をあげたのは、インベ臣のアメトミでした。
翌年の新春十一日、君は論功行賞の詔りをされます。
「思えばこのように平和な新春を迎えられるのも、元はといえば、ウマシマジの忠義(まめ)あったればこそ叶えられたのだ。故にウマシマジは、代々物部の職を継ぐように。ミチオミは汝が望みのままにツキザカ(築坂、橿原市鳥居町付近)の館と、クメの土地を与えよう。ウツヒコは、この戦で船の水先案内を買って出たことと、祈り用のカグ山の埴(はに)を難儀して採ってきた事の功は大であった。よって、ヤマト国造(くにっこ)に任命する。弟(おと)ウガシは、タケタ(宇陀郡多気)県主に、かつ、その弟のクロハヤは、シギ(磯城)の県主に、アメヒワケにはイセの県主を任命する。アタネには山城のカモの県主を、カッテ神の孫のツルギネはカツキ(葛城・かつらぎ)の国造としよう。最後にヤタカラスには、汝の道案内で無事ウガチ村にたどり着くことができたので、ウガチ村の直頭(あたいのかみ)を与えよう。そしてその孫にはカドノ(葛野郡、京都市左京区太泰付近)県主を任命する」
三年目のことです。
五月雨が40日間も降り続き、国民の間に疫病が流行し、稲に稲熱(いもち)病の被害が広がり始めました。早速君に状況を報告した後、アメタネコとクシミカタマの両大臣は共に、ヤス河原に赴き、仮宮を建てて風生(カゼフ)の祓いを行ってお祈りしたところ、疫病も治り、稲も再び元気になり立ち直りました。君は大層喜ばれて詔りがありました。「ワニヒコの先祖のクシヒコは勇気ある忠義のイサメ(諌言)により、アマテル神からヤマト神の名を賜わった。三代輪(みよわ)に及ぶ実直な功を称えて直り物主神(なおりものぬしかみ)の名を与えよう。又、タネコの先祖のワカヒコも直き鏡の忠告の功により、直り中臣神(なおりなかとみかみ)の名を授けよう。この尊い家名を共に子子孫孫継いで、国政を正すように」とのお言葉でした。
四年二月に詔りがありました。
「思えば、御祖の神の都鳥は、金の鳥に姿を変えて我と我が軍を照り輝かせてくれた。お陰で今は、敵も味方も同胞としてここに集い平和になった。アメトミには、鴨をこの地に移させて御祖神をハリワラのトリミ山に祭ることにしよう。又、アタネにカモタケズミの祭りを継がせて、ヤマシロの国造にしよう」と告げました。
橿原宮八年の秋に、総勅使のタカクラシタがやっと帰京されて、君にご報告されました。
「臣は昔、君の命を受けて先ず西方の遠い国、ツクシに遠征して三十二県を巡視して全て治めてまいりました。次に山陰地方を巡り見て、問題無きよう無事治めてから後、越後に行き、ヤヒコ山辺のツチグモ共が、君のご禁制に背いて立て札を打ち割って謀反を起こしましたので、矛を用いて五度戦いを交えて遂に敵を全員殺し鎮圧いたしました。この度二十四県の県主とその民を治めることができました。その記念として、カンタケの御世知らしめす全国の地図を作成しましたので奉呈いたします」と申し上げると、君はタカクラシタの功を労い称えて、新たにキ(紀伊国)の国造に取り立てて、大連(おおむらじ)の称号を与えました。
橿原宮二十年、治まっていたコシウシロ(越後)が再び反乱を起こして初穂(年貢米)を納めませんでした。又、タカクラシタが鎮圧に向いましたが、今回のタカクラシタは一度も剣を抜かずに話合いで平和裏に敵を服(まつら)わすことができました。
この報告を受けた君は、タカクラシタを大層誉めて詔りし、今度は越後国守に取り立てて、ヤヒコ神の称号を与えました。又、君は心遣いされてタカクラシタが越後の国造になった後に、現地に永く住むことを思い、タカクラシタの婿のアメノミチネに、キ(紀伊国)の館を賜い国造としました。
二十四年、君には未だ世嗣子と定める御子がいませんでした。
そんな折、クメの娘で美人の誉高いイスキヨリ姫を后に召そうとおぼして密かにお通いになられたところ、中宮のイソスズ姫に咎められてしまいました。このような事情で、姫を入内させることを断念したものの、実はユリ姫と名を替えさせてクメの館にお忍びで交わっておられました。その後、中宮は妊娠して、翌年の夏無事カンヤイミミの御子をお産みになり、実名をイホヒトと名付けました。
二十六年冬、ヤスタレのヌナ川に祭事があって君と中宮は、お揃いで御幸された折、カヌカワミミの御子がお生まれになりました。実名(いみな)をヤスギネとつけました。
三十年夏のことです。
ヤヒコ神となられたタカクラシタが4年ぶりに上京し、君に拝謁しました。この度はこれといった大事も無く、いつになく打ち解けた二人の酒盃の数も進んで大変盛り上がった君臣でした。君は微笑みながら何気なくお聞きになりました。
「そういえば、汝は昔あまり飲まなかったのに、こんなに強くなったのは何故じゃ」
すると、タカクラシタが答えるには、
「何しろ越後は寒くてついつい毎日飲んでしまい自然に強くなってこのざまです」
それを聞いた君は、笑って言うには、
「汝は酒が強くなってから急に若返って、男前も大分上がったぞ。ようし、ここは一つ私に任せてくれ」
この時、酒の勢いも手伝って賜わったのが美人で評判のクメの娘のイスキヨリ姫で、今のユリ姫です。タカクラシタも突然の話に、嬉しいやら、戸惑うやらで、
「七十七の老体に二十才の姫では不釣り合いで、姫がかわいそうに存じます。どうかこの件ばかりはご容赦を」と、拒めば拒むほど顔はますます上気して、笑みを押さえ切れないご様子でした。
ユリ姫は、タカクラシタの妻となって越後に嫁いでから、立派に一男一女をもうけて、共にヤヒコの女男(めお)神となられました。
次のお話は、ユリ姫十九才の時のエピソードです。
君はサユリの花見と称してサユ川の上流に御幸しました。クメは急遽館内に殿宮(かりみや)を造ってお迎えをし、一泊された時のことです。君の夕食(ゆうげ)の御饗(みあえ)の席で御饌(みかしわ)を捧げたのはイスキヨリ姫でした。君はお美しい姫をいとおしく思われ、お召しになろうと歌を作って御心を告白されました。
この様なわけで、すでに君の局となられたユリ姫ですが、後にタギシ皇子(みこ)が深くユリ姫に恋焦がれて、父のクメに自分の思いをしつこく訴えて、姫との仲立ちを乞い迫りました。父もタギシ皇子の一途な訴えに遂に心を動かして承諾してしまいました。タギシ皇子の思いをかなえようと、先ず父が姫の所に行き、姫を呼びながら室に入ったところ、父の異常な目つきに気ずいたユリ姫は、即座に操(みさほ)ツツ歌を作って父に差し出しました。
後から続いて室に入ったタギシ皇子は、姫の固い操に気ずいて、自ら進んで即座に返歌を返します。
ユリ姫の操と忠義の心を知った父は、タギシ皇子にやむなく、「追って返事をしよう」と言うと、皇子も諦めてお帰りになりました。
この一件を、女官が右大臣のクシミカタマに告げ、クシミカタマが天皇に申し上げるには、
「これは、子の恥じであり、親の恥じにもなりますので、どうか内々に密かに願います」と言うと、天皇も諾かれてタギシミミの一件は、不問に付されました。
翌三十一年、四月一日、君はワキカミ(現御所市、国見山)のホホマの岡に御幸され、美しい大和の国を見渡して感激のあまりに、このようにおおせられました。
四十二年、新年三日、カヌナカワミミの皇子を皇太子と定めて立太子礼を執り行いました。中臣のウサマロと大物主のアダツクシネを左右の大臣と定め、物部のウマシマジも
「共に皇子を助けて国政に務めよ」と詔りされました。
七十六年正月十五日に詔りがありました。
「我すでに老い、政事を直り中臣と大物主の親子の臣に任すべし。諸神これと若宮を立てよ」と、遺言されると内殿にこもりきりになり、遂に三月十日に神となられました。
この偉大な大君を信じ、共に苦しみつらい戦いを越えて歩んだ歳月が夢であったかのように、アビラツ姫とクシミカタマはいつまでもいつまでも長い喪に入っていました。それは、あたかも君がまだ生きておられる時のようにお仕えしておりました。
実は、アメタネコとクシネとウサマロは、皇太子のカヌナカワミミに葬送の儀についてご相談になられましたが、天皇の崩御以来、急にタギシ皇子が独善的に一人で政事を執ろうとなされて、直り三臣(なおりみたり)の意見を聞こうともせず、又問えど返事がなく臣とタギシ皇子の間に不和が生じていました。本来ならば、皇子は喪に入って政事は両翼の臣にまかせるべきであるのに、君の葬送も拒否し続けて延び延びになっていました。
六月に入ると、タギシ皇子は密かに二人の弟を殺そうと陰謀を企てて、ガラリと態度を変えると、あえて弟達に友好的に振る舞うようになりました。
タギシ皇子は、サユの花見と称してウネビ山の麓のサユ川に假室(かりむろ)を用意すると、二人の弟とその母イソスズ姫を室屋(むろや)に招待して、花見の宴を開きました。その席で、母イソスズ姫は普通ならば、高屋(たかや)か社(やしろ)で開かれる花見の歌会が、このような閉ざされた狭い室屋(むろや)で行われることに不自然さを感じとっていました。
二人の息子達に危険が迫っていることを伝えるために、イソスズ姫は二首の歌を綴ると、急ぎ二人の皇子達に歌の添削を頼む振りをして渡しました。皇太子が歌札を取ってみたところ、色々の意味にとれる歌が記されていました。
この歌を読んだ皇太子は、しばし考えた末に、母の送った歌の本意を悟って、今夜にもこのサユ川辺で、我ら兄弟と母を巻き込んだ恐ろしい殺りくが迫っていることを予期しました。一刻の猶予も許されません。カヌナカワミミは、カンヤイミミの皇子にそっと耳打ちして、タギシ皇子について話しました。
「兄は昔、君の后であったイスキヨリ姫を犯そうと企んで失敗した男だ。その時は、親子の情けで内々に済んだものの、今は政事を我がものにしようと、わがままに振る舞っている。本来なら臣(とみ)に任せておくべきではないか。どうゆうつもりなんだ。葬儀も兄が拒んで未だ行えずじまい。今日我らを招いたのも陰謀だ。先手を打って速やかに計略を練ろう」と言うや、カヌナカワミミは、ユゲのワカヒコに急ぎ弓を作らせ、マナウラにマカゴの矢尻を鍛わせると、カンヤイ皇子に靫(ゆき)を背負わせて、兄弟は一緒にカタオカムロ(磯城郡多付近十市町)に居るタギシ皇子の所に向いました。
丁度その時、タギシ皇子は昼寝の最中で床に伏っていて、二人が来たのも知りませんでした。カヌナカワ皇太子が、小声で言うには、
「兄弟が互いに張り合っても意味がない。我が先ず室(むろ)に入るから、汝が射殺せ」と言って、兄に功を譲り、室の戸を突き上げて乱入すると、物の気配で目を覚ました兄は、
「靫(ゆき)を背負って踏み込むとは、ふとどき者め」と剣を抜いて二人に斬りかかってきました。
この時、弓を射るはずのカンヤイ皇子の手足がガタガタとわなないて、突っ立つたまま弓を射ることができません。とっさに皇太子は兄から弓矢を引き取って、一の矢を胸に、二の矢は背中に当て、タギシ皇子は絶命しました。後に、死骸をこの地に手厚く葬って、皇子神社(みこのかみやしろ)を建ててお祭りしました。カンヤイは、自分の腑甲斐なさを恥じて、自ら身を引くと、トイチ(現磯城郡十市町)に住んでイホノ臣ミシリツヒコと名を変え、神道(かみのみち)に身を置いて、兄タギシミミの御霊(みたま)をねんごろにお祭りして生涯を閉じました。
神武百三十四年、新年三が日の寿も済ませて、二十一日に、カヌナカワミミ(綏靖天皇)は、天つ日嗣(あまつひつぎ)を受け継いで、カツラギのタカオカ宮(御所市森脇)で即位しました。歳は五十才でした。
百三十四年、九月十二日、橿原宮の死骸(おもむろ)を、カシオ(ウネビ山東北・白檮尾)の陵(みささぎ)に埋葬して、神武の葬送を無事終えました。(畝び山東北陵)
その時の儀式の様子は、君と生涯を伴にされたアビラツ姫と、やはりカンタケ君に己の夢をかけて生涯忠義を尽くされたクシミカタマとが、問わず語りに君の御世を語り明かして、いつしかお后と臣は、君の亡がらと共に洞に入られて一緒(とも)に神となられました。
翌朝になって、お二人の殉死を聞き知った侍女や従者達が次々と、君の後を追って殉死して、その数は三十三人にも及びました。
この時、世の人々が唄った歌。
終り
- 出典
- ホツマツタエ(国立公文書館蔵)
秀真(ほつま)政傳紀(和仁估安聰訳述)
- 訳
- 高畠 精二