タマヨリ姫に白羽の矢

神武天皇の誕生

 7月上旬のことです。ヒコホホデミの天君から、カモタケズミの結婚(イセムスビ)話が持ち上がりました。君の12人おられる后の中から、誰なりと好きな后を授けるから願いでるようにとの詔です。

 カモタケズミは、「私からは申し上げるのは畏れ多いことでございますので、天君の思し召しに従わせていただきます」とお答えになりました。
 これを聞いたコトシロヌシの妻、ミホツ姫が申し上げるには「君の12后の中でも、私の孫であるスケ后のモトメ姫、ウチ后のイソヨリ姫、シイオリ姫、の3名のうちの一人がお似合いかと思います。特にイソヨリ姫は、美しくも賢く気立ての優しい姫で、我が家系の自慢の姫でございます。是非おすすめいたしたく存じます」
 早速、父神コモリの神に意向をお尋ねしてみますと、にっこりとエミス顔で頷かれました。君は、イソヨリ姫をカモタケズミに賜わり、結婚の儀が河合(カワイ)の館で盛大に執り行われて、お二方ともここにお住まいになりました。

 都(ミズホ)でのヒコホホデミと后のトヨタマ姫は、太陽と月のように仲睦まじく、そのお姿はお雛様のようにいつも冠をかぶられ(ヤモの冠)、政を執られておりました。
 平和で豊かな年月が流れ過ぎ、天寿の近いことを悟った天君は、天の嗣(あめのひつぎ)をお譲りになるために、皇太子のウガヤフキアワセズの御子に、オニフの春宮からミズホの宮に行幸を要請します。
 君と若宮は久方ぶりに父子ともに合見えて、睦まじい時を過ごされました。

その時、若宮は中央にお坐りになられていて、左に鏡の臣(とみ)のアメノコヤネ、右に剣の臣のコモリ(ミオヒコ)がはべっておられました。
 天君はその席でミハタの紀(ふみ)(神璽)を、自手(みて)ずから、皇太子(ヲミコ)に厳かに譲られました。正后(まさきさき)トヨタマ姫は、八たの鏡(やたのかがみ)を高くささげ持ち、左大臣のカスガにさずけました。又、大典侍(おおすけ)のモトメ姫は八重垣(やえがき)の剣をささげ持ち、右大臣のコモリに与えました。
 ウガヤフキアワセズの君と左右両大臣の三人は、三種の神器を慎みてお受けになりました。

 その後、天君と后は夫婦共々、大津のシノ宮で静かに余生を過ごしておりましたが、間もなく、この宮でご一緒に神上がられました。 時は、四十二鈴(すず)八百五十枝(え)、キウトの年のことでした。
その年の八月四日には、先君の四十八夜の喪も明けて後、遺言通りにご遺体は敦賀のイササワケ宮に祭られ、ケヒの神と称えられました。

 ケヒの神の名の由来は、ヒコホホデミが、兄の海幸彦から借りた釣針を失って、途方にくれて松原をさまよっていた時、親切なアカツチの老人(おじ)に出合い、翁のお弁当を分けてもらって、共に語らい苦しい胸の内を打ち明けることができ、翁の進言に従って遠く鹿児島宮に居られるハデズミの所に船出したことにより、重苦しい運命が急転直下に解決して、釣針を見つけることができたばかりか、ご生涯を共にするトヨタマ姫とも結ばれる幸運をもたらした、門出のケイ(べんとう)にちなんだ神名です。

 トヨタマ姫のご遺体は、ミズハの神を祭る貴船神社に納めました。
 その理由は、昔姫が身重の体をおしてカモ船で、君の居られる敦賀に向かう途中、沖合で嵐に見舞われ船が沈む憂き目に合いながらも、お腹に宿した君の子を守らんための一心から、貴船のミゾロの竜に祈り、そのご加護を得て気丈にも渚に泳ぎ着くことができ、君の待つ敦賀で、無事天御子(あめみこ)ウガヤの君をめでたく出産したことによります。又、故あって、恥ずかしい思いからミズハの宮に一時身を隠したこともあり、後にアイゾロの神と呼ばれ、田水を守り船を生む船魂とも呼ばれるようになった縁の深い貴船にお祭りすることになったのです。

 ウガヤの君の詔がありました。
 「タガは両神(ふたがみ)の最初の宮であるが、古くなり破れているので建て替えて、ニニキネの君のお住まいになられたミズホの宮を、タガに移そうと思う。イシベに引越させ、オオヤに再建させ、いつもニニキネの先宮と両神とを、おそばで拝礼できるようにしようと思う」

 準備万端整ったところで、君は都をミズホから多賀に移して、即位されました。
 即位の礼のお姿は、綾錦(あやにしき)の御衣裳(みはも)を着て、胸には玉飾りを着け八方のヤモ冠をかぶられて、沓を着用されて真に美しく華やかなものであられました。ニニキネの君の定められたハラの儀式に則り、式はおごそかに進められ、それはもう絢爛豪華でおごそかな式典でした。
 翌日、君は国民の前にお立ちになり、万民から万歳、万歳と歓喜の声をもって迎えられました。

 即位の儀が無事終わったことを、伊勢に坐す天照神に報告すると、早速天照神から詔が伝えられました。
 「私は昔、天成の道(あまなりのみち)をカグの紀(ふみ)によって学びました。先祖の御祖(みおや)の書き記した多くの紀(ふみ)を、今、カモヒト君に授けます。この御祖の築かれた教えを良く守って民を慈しみ豊かで平和な政治を行えば、国民も君を慕いこの国は末永く栄えるでしょう。御祖の心に従い良い政治を行うように「御祖天君(みおやあまきみ)」という名を捧げましょう」
とのお言葉が添えられていました。

 勅使(オシカ)が去って後、君は詔を出し、冬至る日には、悠紀(ゆき)・主基(すき)の宮で大嘗祭も厳かに執り行われ、天神地祗との神事を滞りなく終えて国の栄えんことを祈りました。
 この後に、両神はタダス殿(下鴨神社)で天下を治めておられ、民は平和で豊かな生活を送っていました。

 ある新年三日、アメノコヤネが年賀のお祝いの席で申し上げるには、
 「君は今、御祖の道を守って国民を良く治められております。唯一つ心配なのは、世嗣子(よつぎこ)に恵まれずにいることです」

 右大臣のコモリが進言するには、
 「コヤネの家には世嗣紀があると聞いております。コヤネの後継者のアマノオシクモに、世嗣社(よつぎやしろ)を建てさせ祈らせたらいかがでしょうか」と。
しかしオシクモの努力にもかかわらず、何の兆候も表われません。そこで、コヤネがフトマニを占うと「シノハラ」と出て、ヤセ姫を中宮に立てることにいたしました。

    (シの原は、神の伏見の玉串を淡みの恵みの都たつなり)

 年若く中宮に立たれたヤセ姫を、他の11人の后達も心からお祝い申しあげました。オシクモが、身を清めて世嗣社に一心に祈ったところ、遂に兆しが表われて十一か月目にめでたくお生まれになったのが、イツセの君です。悲しむべきは、ヤセ姫が宮にお帰りあそばされて間もなくお亡くなりになられたことです。
 そのため、母乳が無いので早速国中にお触れを出し良い乳母を探すことになりました。

 以前、ヒコホホデミの天君の詔によって結ばれた、カモタケズミとイソヨリ姫の間には、13年間も子供ができませんでした。  ある時、ご夫婦そろってワケツチの神に子供が授かるように一心にお祈りしていると、その夜夢の中で、白玉を天から授かり、一年後にお生まれになったのがタマヨリ姫でした。タマヨリ姫はご両親に大切に育てられ、世にも美しい玉のような姫に成長されました。姫が14才の時、無事成人されたのを見届けると、姫一人残したまま、ご両親は相共にみまかって、河合(かわい)の神となられました。

 一人残されたタマヨリ姫は、両親の四十八の喪祭(もまつり)を静かに済ませると、唯一人でワケツチ宮を再び詣でて、ユフを捧げて祈っていると、いつこからかウツロイの神が現われて姫に近ずくと疑い深げに、姫に問いかけました。
 「お姫様、たった一人で一生涯ワケツチ神にお仕えするおつもりですか」

 姫は、はっとして声の方を振り向くと、きっぱりと答えて、
 「シカラズ(ちがいます)」

 又、ウツロイが問うには、
 「ヨニチナムカヤ(世間なみに)結婚するおつもりか」

 姫は腹だたしげに答えて、
 「私を侮辱するおまえはいったい何者なのだ。私は神の子ですぞ。名をなのれ」
 と言えば、ウツロイは恐れをなしてゴロゴロと雷鳴を残して飛び去りました。

 又、ある晴れた一日のことです。
 河合の森をそっと出て、ワケイカズチの宮に詣でて一人静かに禊(みそぎ)をしていると、どこからともなく白羽矢(しらはのや)が飛んできて宮の軒端にささりました。そのことがあって間もなく姫の生理は止まり、ごく自然に男児が生まれ出て、気がついてみれば何の不思議もなく育てておられました。

 子供が丁度3才になった時のことです。
 その子は、白羽矢を指差して「父」と言った瞬間、矢は天空高く登り消え去りました。人々の間にこの話が囁かれ、その矢はきっとワケイカズチの神に違いないとの噂が国中に広がっていきました。
 怪しくも、お美しい姫御子(ひめみこ)の元に、諸国の国神からの結婚の申込が殺到しますが、姫は頷かずに、タカノの森に御子共々隠れ家(かくれが)を造り、世間から身を隠して住まわれ、そこにワケイカツチ神の小祠(ほこら)を造り、常に御陰(みかげ)を慕いてお祭りしておりました。
 この噂が、いよいよ君のお耳にも入り、真実を確かめよとの詔が伝えられました。

 ある村老(むらおさ)が申し上げるには、
 「日枝山(ひえやま)の西の麓に一人の美しいお姫が一児と隠れ住んでおられて、その姫の乳は大変滋養に富んで清く、隣村の痩せ衰えた子供を哀れんで、姫が乳を与えたところ、たちまち肥え太って、今では元気に育っております。この姫は昔からの尊い神の子孫の出生ですが、故あって、深い森の中の隠れ家に子供とひっそり住んでおられます。この森の上には、いつも五色の雲が立ち登り、出雲路森(いずもじもり)と人々は親しみを持って呼んでおります。今まで大勢の神々がお迎えに上がりましたが、誰にも応じません。君にあられましては、是非正式な勅使を立てて丁重にお迎えに上がられるのがよろしいかと存じます」 と申し上げました。

 君は早速イワクラを勅使として派遣しますが、結局姫の承諾を得られなかったとの復命がありました。それを聞いたワカヤマクイが申し上げるには、
 「君の特命を受けた勅使を出しても、来ないのは訳があってのことでございます。実は姫は一人でワケイカズチの神を日夜お祭りしている関係で、君のところに伺うと、お祭ができなくなるからです。君が姫を助けて一緒にワケイカズチ神をお祭りされればよろしいかと存じます」
と進言しました。
 
 君は早速ワカヤマクイに詔りをして、新たに勅使として任命し、姫と子を誠意を持ってお招きすると、今度は素直に上京して君に見えました。君が親しく姓名(うじな)をお尋ねになると、姫はりんとした声でお答えになり、
 「私の父はタケズミで、母の名はイソヨリと申し、両親が私の名前をタマヨリと名付けました。ハデズミの孫でございます。私のこの子には、父はございません。神に授けられた子です。父がなければ、イミナもできず、人は皆イツモの御子と呼んでおります」
 言葉は上品で、知性がにじみ出て声は透き通って美しく、そのお姿は玉の様に光輝いておられました。

 君は詔りされ、姫を内局(うちつぼね)として迎え、イツセ御子を養育されることになり、イツモの御子には、ミケイリ御子と名を賜わりました。その後、局の時に産んだ御子の名はイナイイ君ともうします。
 中宮になられてからお生まれになった御子の名こそ、カンヤマト・イワワレヒコの御子となられ、その時アメタネコがタケヒト君と実名(いみな)を捧げました。
 タケヒト誕生をたいそう喜ばれた天君も、御子のためにツズ歌を作って贈られました。

  これ璽(おしで) 豊経る(とよへる)幡(はた)の つず根にぞなせ

終り

出典
ホツマツタエ(国立公文書館蔵)
秀真(ほつま)政傳紀(和仁估安聰訳述)
高畠 精二