皇太子オシホミミ、三種神器を授かる
時は、ウビチニ暦二十五鈴(フソイスズ)、百枝十一穂(モモエソヒホ)の年のことです。
昔、アマテル神は祖父トヨケ神(現・伊勢外宮祭神・豊受大神)の坐すヒタカミ国(旧・陸奥)のケタタケツボ(方丈壺 現・多賀城市、仙台市)ヤマテ宮(仙台宮)に御幸され、トヨケからアメナルミチ(天成神道)を学ばれました。この由緒ある聖跡にこの度、輝かしい新都が再建されました。
宮城の造作も無事に完工して、宮殿の甍(いらか)もついに葺き終わった頃合を見計らってフトマニ(太占)を占い、吉日を選んでアマテル神の皇子オシホミミは大勢の供奉神(ぐぶしん)を伴って粛々(しゅくしゅく)と木の香も真新しい新宮に渡御になりました。
この新宮の名をタカノコウ・ツボワカ宮(多賀の国府、壺若宮)と名付けました。
今日の良き日を共に祝おうと全国からヒタカミに押し寄せた国民は、唯々、一様に感極まった面持ちでヨロトシ、ヨロトシ(万歳、万歳)を声の限りに繰り返して皇子オシホミミをお迎えしました。
この君はアマテル神の世継の皇子で、母はヒノマエムカツ姫(日前向津姫、現・伊勢皇大神宮別宮 荒祭神社祭神、三重)、またの名をセオリツ姫と申し、真名(イミナ)をホノコ(穂の子)と言いました。
母ホノコの出産のため特別に用意された産屋は、フジオカ山(藤岡山、伊勢外宮内)の麓のオシホイ(忍穂井、現・上御井(かみみい)神社、下御井(しもみい)神社)のみみ(縁)に新造されました。ご誕生の皇子は気高く美しい母の乳を勢いよく咽ぶ様に飲んで、いつもおむつをお湿りさせていたところから真名(いみな)をオシヒトと名付けられ、公式にオシホミミの名を一般に広く知らせて国を治めました。
オシヒトはアマテル神の先例にならい幼い時から親元を離れてタガ(現・多賀神社、滋賀県)若宮の祖父イサナギの元で大切に育てられました。
イサナギがいよいよ臨終の時を向かえると、君の遺勅により、これより後はオモイガネ(阿智神社祭神八意思兼神、長野県)とワカ姫(アマテル神の姉)夫妻に養育を託されます。お二人はともに協力してネの国(北陸)とサホコチタル国(山陰)を治めつつオシヒトの教育に専念しました。
君のご学友としていつもヨロマロ(万麿、八代目タカミムスビ、タカギ)が、唯一人お側に侍って共に成長しました。しかしながら君は天性のご麗質からかお身体はさほど強健とはいえず、むしろ禊(みそぎ)も稀にしか出来ないお優しいお体でした。
この後、オモイカネ夫婦が共に神上がり、伯母(ワカ姫)の去った後は七代目タカミムスビ・タカキネが、コウノトノ(御守殿)として政務を引き継ぎアシハラナカ国(近畿・中国地方)を治めることになりました。この事情から八代目タカギ(ヨロマロ)は急ぎ本国に帰り、ヒタカミの国神として政治を執ることになりました。
昨年君は、アマテル神の旧跡のケタタケツボを慕ってヨロマロの居るヒタカミに御幸になりました。この時慣れ住んだタガ(多賀、滋賀県)の都の名をも引き移し(現・多賀城市、宮城県へ)、カウ殿(タカキネ)の娘のタクハタチチ姫(楮機千乳姫、真名スズカ姫、現・片山神社祭神、旧名・鈴鹿御前、三重県)を正式に后と定めて、古式に則り十二人の局達も皆備わった所で宮中の婚儀の用意も万端整いました。
アマテル神に、この晴れの結婚の儀をご報告する重要な神使い(カンツカイ)役として選ばれたのは、ツガルの君(大己貴、津軽大公)の子のシマヅウシ(島津大人)でした。
即日、鹿島立ちしたシマヅウシは、ホツマ国(関東・東海地方)へと馬を走らせて登り、一方天上からの勅使は宮中に侍るカスガマロ(現・春日大社祭神、天児屋根 アメノコヤネ)で、こちらもホツマ国へと降り、お互い約束の地オバシリ(現・御殿場市、静岡県)の行逢う坂(ゆきあうさか)を目ざしました。
たまたま先に約束の坂に着いたカスガマロは、馬を休ませようと己の堅間(かたま、目の細い竹または柳籠、旅行用荷物入れ)を松の木の陰に据えて、シマヅの来るのを待ちました。間もなく馬を飛ばしてやって来たシマヅウシは白駒を乗り放って飛び降りると、共に今度の婚儀の寿ぎ(ことほぎ)を交わし、休む暇もなく再会を期して西へ東へと走り去りました。
この場所は後々までも「行き交い坂」(ゆきかいざか)の地名として残りました。(現・駒門、大阪、神山地区か、御殿場市、静岡県)。又、秋に両使者が帰る時、同じ所で出合ったので「行き来の岡」とも名付けられました。
これは以前の出来事です。ホツマからヒタカミの国境まで勅使を境(酒)迎えに出かけたフツヌシ(現・香取神宮祭神、千葉県)と勅使のカスガワカヒコ(カスガマロ・天児屋根)は共にこの時の出合いが伯父と甥の初対面となりました。
お互い寿を祝い合って後、甥のワカヒコは伯父の境(酒)迎えを感謝しつつも快く受けました。二人の酌み交わす酒席からの眺めは、丁度浜辺に突き出た庇(ひさし)の様な岩上の絶景の高台で、白波は絶えることなく打ち寄せ岩を洗い続けていました。ワカヒコは、そちこちに打ち寄せられた海枩(みるめ、食用海藻)や蛤(はまぐり)が散り敷かれたゆるやかな浜ののどかな風情に魅せられて、思わずこの浜の名を伯父に聞きました。このとっさの問いにさすがのフツヌシも言葉につまって、
「名こそもがな」(名前があるのだろうか)とつぶやきました。これを聞いたカスガマロはすぐに即興の歌を詠みました。
名前が「なこその浜」(勿来、いわき市、福島県)と決まったのを祝おうと二人は近くから桜の果を採って食べ酒を呑んで思い出としました。再び秋帰る日にも同じ風光明媚なこの岩の上で酒(境)送りの宴が開かれ、この時は固塩(かたじお)と魚(さかな)と海苔(のり)を酒の摘みにした所から、酒を呑む合間に摘む食べ物のことを、この時から酒の肴(さかな・魚)と言うようになりました。
今度、アマテル神からの勅命を受けて、急ぎフツヌシとアメワカヒコは初対面の時と同じ道を通って、ヒタカミのタカのコウに入城しました。
今日は結婚の儀を間近に控えて、皇位継承に欠かすことの出来ない三種神器(ミクサノカンタカラ)がアマテル神から皇子オシヒトに授与される一世一代の栄えある一日です。
ヒタカミの大君(タカギ)はあたかも二人の到着を今か今かと待っていたかの様に自ら門まで出迎え宮城内へと誘いました。
オシカ(勅使)カスガワカヒコは、宮に入ると端正に打たれた筵(むしろ)の席上に登り、並居る諸神を前にして直立不動のまま凛とした声でアマテル神の詔のりを皇子オシヒトに告げました。
この時天子オシホミミは九重(ここのえ)の褥(しとね・座布団)を三重(みえ)降りて六重(むえ)の褥の上で身を糺し慎んで君の詔のりを拝聴しました。
以上、アマテル神の勅語を威儀を正したまま正確に伝え終えると、勅使(オシカ)は深々と三拝した後に静かに筵(むしろ)を降りました。
ある一日、ワカヒコはコウドノ(国府殿)に昇殿して金華山(宮城県牡鹿半島先端の島)を遠望しながら、その名の由来をお聞きしました。この時のタカギの答えは、
「天日の君(アマテル神)がケタタケ宮に入御以来、この宮を守護する金色の烏(からす)があたり一面に黄金を吐きだし、遂には木も茅も黄金の花を咲かせる様になり、海辺の砂や魚類達、貝や海鼠(なまこ)等までもが金色に輝きました。今でもここからの朝な夕なの眺望は金華山の名に恥じることなく黄金色の花を咲かせ続けて、いつまで見続けても美しいこの山を誰もがヒサミル山(久視山)と称えるようになりました。」
終り
- 出典
- ホツマツタエ(国立公文書館蔵)
秀真(ほつま)政傳紀(和仁估安聰訳述)
- 訳
- 高畠 精二