イサナギ・イサナミと和歌の枕言葉

 ある日、宮中に諸神が集い神議(かみばかり)が行われました。
 取り立てて難しい問題も無く無事に打ち合わせも終わり、皆ほっと一息ついたところで大物主(おおものぬし)のオオナムチが一同に質問をしました。

 「こうしてせっかくお集まりの皆様に是非聞きとうございます。私はいつも枕言葉とは何なのか解りませんでした。そのいわれを知っておいでの方に是非お教えを乞いたく思います」
 その時は誰も答えられず、やっと皆の会話がおさまった頃にアマテル神の姉ワカ姫の夫アチヒコ(思兼命)が口を開きました。「これは確か禊(みそぎ)の文の中にあります」諸神はこの一言を聞くと異口同音にアチヒコに言いました。「私達にも是非聞かせて下さい。皆からもお願いします」オモイカネは、皆の願いに応えて慎み深く一礼すると静かに物語を始めました。

 イサナギとイサナミの両神(ふたがみ)が、今の淡海(アワウミ)の瀛壷宮(オキツボ)に居られて国造りされていた時の事です。
 この宮を起点にして大八洲(おおやしま)を巡幸し、農業の普及に努め民を豊かにして後、法を定めて治安を計り、平和で豊かな国の再建を成し遂げました。この時イサナギは一段落したのもつかの間、自らがやり残した重大な責務を思い起こしました。それは、国民相互の心を伝達し合う言葉の乱れを正すことでした。オモタル・カシコネ(五代目天君・あまきみ)の御世、日嗣(ひつぎ)の御子に恵まれず長期に渡り皇統が絶えたままでした。世は混乱して秩序を失い言葉はまちまちで、国としての統一を欠いていました。何とか正しい言葉を教えて民に人の道(天成の道)を教え導かねばならない。との思いから君はイサナミと一緒に考えた末に、アから始まりワで終わる五・七調の歌いやすいアワ歌を考案しました。
 
 上(かみ)の二十四声をイサナギが歌い、下(しも)の二十四声をイサナミが歌い連ねてカダガキ(ビワの原型)を打って弾き歌い、アワ歌を教えて諸国を行幸しました。

  アカハナマ  イキヒニミウク  フヌムエケ  ヘネメオコホノ
  モトロソヨ  ヲテレセヱツル  スユンチリ  シヰタラサヤワ

 アワ歌を歌えば、自ずと音声も整って言葉が明白になり、民の乱れた言葉も自然に直って秩序も回復し国も平和に治まりました。これを記念して今までナカ(中)国と呼んでいた近畿地方を新たに分割して、最初にイサナギ・イサナミが国の再建に尽くしたこの地をアワ(淡海)国と名付けました。
 後に両神(ふたかみ)はツクシ(九州)に行幸されて、国を初めて建国したクニトコタチの理想郷トコヨの国を表わす橘の木を宮前に植えて、ここでもアワ歌を民に教えて言葉を正すと人の道も自ら整い国も豊かになりました。

 イサナギが去った後も、ツクシ(九州)三十二県(ミソフアガタ)の国神達は、君の築いた偉業を忠実に受け継いで国民(くにたみ)を平和に治めました。諸神は君の偉大な御霊(たま)の緒(お)を留めるここツクシの宮をオトタチバナノアワキミヤ(緒止橘之阿波岐宮)と名付けました。この宮で生まれた三番目の御子の名をモチギネ(月夜見命)と言います。その後君はソアサ国(四国)へと行幸し、この地を治めていたサクナギの子のイヨツヒコ(伊予津彦)にアワ歌を伝授して国中の民に歌を歌わせると、言葉の音声も整ってここでも国民を平和に治めることができました。
 イヨツヒコはアワ歌を教え広めたこの宮の名をアワ宮(阿波)と名付けて、自らも二つ目の名前アワツヒコ(阿波津彦)を願い出て許され、アワ、イヨの両国を治めました。

 イサナギは次にソサ(南紀伊)の渚に来(キ)たりて宮を造り、静(シず)かに居(イ)ましたので、この地をキシイ国(紀州)と名付けました。ここでもクニトコタチ建国の橘の花を植えて理想郷のトコヨ里(常世)を造りました。

 先に身のオエ(汚れ)を流すために捨てられたアマテル神の姉ヒルコ姫も、再び両親(イサナギ・イサナミ)の元に召されて、今はこの宮でご家族一緒に仲睦まじく暮らしていました。ヒルコ姫も今美しく成長されて、名前もワカヒルメ(姫)と変わりすっかり災いは祓い除かれました。
 ワカヒルメがちょうど母イサナミから満開の桜花の下で和歌の手解(てほど)きを受けている時の事です。丁度母が、第四子をお生みになったので、その子の名をハナキネ(花杵・素戔鳴)と名付けました。しかし美しい名前にも関わらず、ハナキネは長ずるにおよび、常に泣叫(いざち)・雄叫(おたけび)母を困らせて、ある時は重插(しきまき)をして新嘗祭(にいなめさい)用の神田をだめにし、田に馬を放って畔(あぜ)を決壊させるやら民を苦しめて、世にクマ(災い)をなしていました。
 母イサナミは、息子ハナキネの扱いに苦しみぬいた末に心の内を明かしました。
 「先に身のオエを流すために幼いヒルコを川に流し捨てて、美しいワカヒルメとして復活したのに、今となっては成長したハナキネのクマ(災い)を流し捨てる術(すべ)も無く途方に暮れています。唯、私にできるのは、世間に大変御迷惑をかけた悪事を全て我が身に受けて責任をとり、諸民の損害を償うのみです」

 このように民の安全を心から願って熊野三宮を建てて、災害がこれ以上及ばないようと神祭りもねんごろに行いました。この後、あまねくお触れを出して諸民に与えた損害をくまなく償いました。
 本宮の名をクマノ宮(熊野)と呼ぶようになったのも、息子のクマ(災い)が民に及ばぬようにとの計らいからこの宮を建てたことによります。
 ハナキネは母の苦悩も解らぬまま、あろうことか熊野三山に火を放ち、山林火災を起こす一大事をしでかしました。末子のハナキネにとって甘えてもなお甘え足りない大切な母を悪戯(わるふざけ)とはいえ死に追いやる結果となりました。
 母イサナミは勢いづく山火事をなんとか消火しようと、本宮に籠って一生懸命に祈願を続け、火の神のカグツチ(迦具土)を生んで消化を願いますが、ついに火にまかれて焼死してしまいました。この死の間際に生んだ神の名は土の神のハニヤス(埴安姫)と水神のミズハメ(網象女)でした。続いてこのカグツチとハニヤスが結ばれて生まれ出た神の名をワカムスビ(稚産霊)といいます。この神の首(頭)からは蚕(かいこ)と桑が生え出て、濟(へそ)からは稲が生え出てきました。後に人々はこの養蚕と稲をつかさどる神を崇めてウケミタマ(宇迦御魂神・稲荷神)として祭りました。
 最後まで心を尽くし身を挺(てい)し民を守ったイサナミの亡骸(なきがら)は、大勢の民の手により現・熊野市のアリマ(有馬)に納められました。人々はイサナミの美しい心を愛でて、今日でも春祭は花を飾って祝い、秋祭は初穂を奉げて徳を偲んでいます。

 イサナミの葬儀でイサナギの妹ココリ姫(菊桐)は一族(やから)の者達を集めてキッパリと告げました。
 「イサナギは、妻を追って亡骸を見に行くことはなりませぬ」
 又、ココリ姫は念を押すようにイサナギにも強い口調で告げました。
 「君、これな見そ」(君よ、死体を絶対見てはなりません)
 イサナギはそれでも聞こうとはせず、
「我が最愛の妻を突然なくし、悲しみにいたたまれずこうしてやって来たのだ。誰が何と言おうともう一度妻に会わずにはいられないのだ」

 外は夜の帳(とばり)にとっぷりと包まれ、遺体を安置する洞穴(ほらあな)は正に射干玉(ぬばたま)の真っ暗闇です。イサナギは頭に差した黄楊(つげ)の櫛(くし)を抜くと清めの祓いを済ませ、櫛の雄鳥歯(おとりば)に火を付けダビ(手火)にしてそおっと明りを近づけて見ると、ああ恐ろしや、腐乱した死体に蛆(うじ)がたかり所かまわず這い回っているではないか。
 「ああ何と醜く汚い姿よ」と叫んで不気味な洞から足を引き返し逃げ帰りました。

 その夜のことです。イサナギは苦楽を共にした妻への恋しさに耐え兼ねてついに神の姿(霊体離脱)となって会いにいきました。
 気が付くとイサナミが目前に現われて、恨めし気に言い放ちました。
 「要(カナ)、真実(マコト)入れず恥見す我が恨み、醜女八入(しこめヤタリ)に追放(オワシ)むる」
 (あなたは重要な死という現実を受け入れられず、見てはならない私の死体を見た。私はこれ以上恥をかかぬよう、死体を守る醜女(しこめ)八人に命じて追っ払います)
 イサナギは恐ろしい醜女の追跡に剣を振りながら命からがら逃げ出しました。途中でエビ(ぶどう)を摘んで投げつけると醜女等は我先に競って食らいついたので、一旦ほっとしたのも束の間、更に追いついて来たので、今度は竹櫛(たけぐし)を投げるとこれも又噛み食らい、また追って来るので、近くの桃の木に身を隠して、桃の果を投げつけました。
 すると不思議なことに醜女等は全員退散して恐ろしい逃走は終わりました。この時、君いわく、
 「鬼から逃れるには、エビ(ぶどう)を投げれば一時避けられ、黄楊(つげ)櫛は鬼を払うに竹櫛より勝れているようだ。桃こそは見事に鬼を退散させて悪夢から救ってくれた功により、新たにオオカンズミ(大神津果)の神名を賜おう」
 イサナミはついに、自分への思いを断ち切らせるために自ずからこの世に姿を表わしました。その頃すでにイサナギは妻を慕って、ヨモツヒラサカ(黄泉平坂)に辿り着き、妻の姿を求めて岩山をさまよい歩いていました。それを知ったイサナミは、坂の途中に千人で引くほどの大岩(千引岩・ちびきいわ)を据えて二人の間を塞ぐと、向き合って立ち、ハッキリと事断(ことだち)を誓いました。イサナミはいわく、
 「愛する夫よ、これ以上私の死を受け入れないなら、毎日貴方の族(やから)千人の頭(こうべ・首)を絞め殺します」
 イサナギも答えていわく、
 「愛する妻よ、それなら我は毎日千五百人を新たに生んで国を再生し、二度と過ちを犯さぬ事を誓ってみせよう」

 生と死と、愛と別離の誓いを立てたヨモツヒラサカは、人が死に臨んで息絶(いきた)ゆる瞬間の幽明界(ゆうめいさかい)を絶ち塞ぐ境界岩(カギリイワ)です。  イサナギはこの岩座(いわくら)を「これ道返(誓)し(チカエシ)の大神なり」と名付けて悔みつつも、本宮(モトツミヤ・熊野)に帰りました。
 黄泉平坂(ヨモツヒラサカ)から帰還した君は、醜く汚れた我が心身を濯(そそ)ごうと願い、音無川(オトナシガワ)で禊(みそぎ)をして新たな神々を次々と創造しました。

 まずヤソマカツヒ(八十真光津日)の神を生んで後、汚(けが)れた心を素直にしようと、カンナオヒ(神直日神)、続いてオオナカヒ(大直日神)神を生み心身を清潔(いさぎ)良く保ちました。
 この後にイサナギはツクシ(九州)のアワキ宮に行幸し、美しい睡蓮(すいれん)の咲く近くのナカ川で禊(みそぎ)した時に生んだ神の名は、ソコヅツオ(底筒男)、次にナカヅツオ(中筒男)、ウワヅツオ(上筒男)の三神で、この神はカナサキ(金折命・住吉神)に祭らせました。
 又、ムナカタ(宗像)に行きアヅカワ(安曇川)で禊をして生んだ神の名は、ソコワタツミ(底海祗)、ナカワタツミ(中海祗)、そしてカミワタツミ(上海祗)の三神で、この神はムナカタ(宗像命)に祭らせました。又、シガウミの渚に行き禊をして生んだ神の名は、まずシマツヒコ(島津彦)、次オキツヒコ(沖津彦)、シガノ神(志賀彦)の三神でこれはアズミ(安曇命)に祭らせました。

 イサナギは再びアワ宮(淡海)に帰ると間もなくトヨケ(豊受神)からイサナギに詔がありました。

導きの歌  アワ君よ  別れ惜しくと  妻 葬送(オク)る
夫(オウト・追人)は行かず  行けば(妻)恥  醜女(しこめ)に追わす
善し悪しを  知れば足引(あしひ)く  黄泉坂(ヨモツサカ)
事断割(コトダチサ)くる  器量(ウツワ)あり
 今は心身の穢(けが)れも禊(みそぎ)により濯(そそ)がれて、民の暮しも整い国の平和がよみがえりました。大八洲(オオヤシマ)の隅々にまで言葉が通じ合うようになり、クニトコタチ以来の人の道の真(まこと)を伝える瓊(ト)の教えも益々行き渡っていよいよ国は栄えました。葦引(あしび)きの千五百(チイオ)反の小田の瑞穂も秋の実りを迎えて、収穫祭の音が村々から楽し気に聞こえてきます。ヤマト(大日本)の言源にもなったヤマト(弥真瓊・イヤますます・マことの・トの教えがととのうる国・法治国)に感謝して神前にカカン(かがり火)して、ノン(祝詞・のりと)をアワ国に奉げ、デン(神鈴・拍手)を打って、ヤマトの国の豊穰(ほうじょう)と案寧(あんねい)を祈りました。

 葦を引き抜いて水田となし豊かな実りを得て明るい国とした葦、黄泉(ヨミ)の国から足を引き返したイサナギの足は同音異義語ですが、その心には同じ国造りの天意が含まれています。

 この様に歌の道とは、まだ世の中が乱れてお互い言葉もまちまちで通ぜず、真瓊道(マトミチ)が行き渡っていない暗い時代のイサナギ・イサナミの国生みの苦労が「足引きの」枕言葉として後世まで記憶され歌の種として伝えられました。
 「足引きの」は山又は峰にかかり、「仄仄(ほのぼの)」は明けにかかり、「射干玉(ぬばたま)」は夜の闇にかかる真黒(まっくろ)の種です。「島つ鳥」は鵜にかかり、「沖つ鳥」は鴨と船にかかるその謂(いわ)れは、太古、船を創案した六人を船魂(ふなたま)神といい、その第一がシマツヒコ(島津彦)という神で、アワ国(淡海)のアズミ川(安曇川)で朽ちた木に乗って川を下る鵜(う)の鳥を見て筏(いかだ)を造り、後に棹(さお)を差すことを覚えて船の大本(おおもと)を造りました。二番目がその子のオキツヒコ(沖津彦)で、鴨が浮遊しているのを見て初めて櫂(かい)を造ったので鴨船(かもぶね)と名付けました。

 射干玉(ぬばたま)の様に、暗い世の中の乱れを正した努力を枕(まくら)にして夜を過ごせば、やがて豊かで秩序ある明るい暁(あかつき)を迎えて前言葉に変わります。
 真(まこと)に心を明かすのは和歌(うた)の道です。
 禊(みそぎ)の道は身を潔(あか)し、このように身も心も潔斎(けっさい)する弥真瓊(ヤマト)の道はなんと偉大なることでしょう。

終り

出典
ホツマツタエ(国立公文書館蔵)
秀真(ほつま)政傳紀(和仁估安聰訳述)
高畠 精二