アマテル神の誕生と即位

 昔、この国を最初に開いたクニトコタチには八人の御子がありました。御子の名前の頭文字をトホカミエヒタメといい、この八人を総称してクニサッチと呼びました。その中の一人トノクニサッチは、有用な木や草の種を土産に携えてホツマの国に天降りました。
 ホツマの国はハラミ山(現・富士山・蓬莱山)を中心とした東海・関東地方で、トの神が天降った所からト下国ともいいました。

 この頃、東方はるか彼方の国をヒタカミ(日高見)の国と称しました。高き波の上に日の昇る美しい国を表わした名です。トのクニサッチは彼の地を治めていたタカミムスビと協力して東国を平和に統治しました。この時、クニトコタチ建国のシンボルの花、常世(トコヨ)の橘(たちばな)の花もハラミ山に植えて、この秀峰の名をカグヤマ(天香久山)と称えました。
 時は下り、六万年で折鈴(さくすず)となり枯れるという真榊(まさかき)を代々植え継いでヒタカミ国を治めていたのは、タカミムスビの五代目の真名(いみな)タマキネです。
 タマキネは天上(てんじょう)の高天原(たかまがはら)のサゴクシロ宮に鎮座する四十九神をヒタカミの地に勧請して、地上の高天原としました。  四十九神の名は、中心に座(いま)すアウワのアメミオヤ(天御祖神)神、次に元明け(モトアケ)のトホカミエヒタメの八元(ヤモト)神、続いてアイフヘモヲスシの天並(アナミ)神、そして三十二(ミソフ)神の計四十九神です。タマキネがこの四十九神を招き祭って以来、民の生活(くらし)も豊かに栄え、平和が長く続きました。
 諸民は天から豊饒(ほうじょう)を授かった神に、尊敬の念を込めてトヨケ(豊受)の神と呼び称えました。

 又、トヨケは東の君(ひがしのきみ・東王父)とも慕われて、クニトコタチの定めた天成道(アメナルミチ)を受け継いで、神を祭る大行事(オオナメゴト)を司りました。
 六万年毎に植え継いできた真榊は、すでに二十一鈴(フソヒノスズ)となり、年は百二十万七千五百二十年にもなりました。しかし今冷静に考えてみると、神の子孫と称する氏(うし)は千五百人にも増えたといえ、その中に民の悩み苦しみを本当に理解して、天成道(アメナルミチ)により人々の嘆きを解決出来る者は一人もいないではないか。
 「いなければ道も尽きてしまう」と日毎悩んだトヨケは、ついに意を決して国で一番高いハラミ山に登って国々を展望して見ると、八洲(やしま)の民は増大を続けて蠢(うごめ)き騒がしくさまよい、これでは人の道も学べないのは道理だとやはり嘆いてヒタカミの宮に帰りました。父の悩みをひしひしと感じていた娘のイサコ(イサナミ)は父に申し上げて「世嗣子(よつぎこ)も、がな」といえば、父は早速フトマニ(大占)を占った後に、中国(なかくに・現奈良)に赴いて月桂城(つきかつらぎ)の鳳山(イトリやま)に世嗣社(よつぎやしろ)を新造し子種が与えられんことを祈願しました。

 世嗣社(よつぎやしろ)の八隅(やすみ)には八色(やいろ)の垂(しで)を立てて、宇宙神のアメノミオヤ神に祝詞(のりと)を捧げ、トヨケ自ら一心に禊(みそぎ)を重ねて八千座(ヤチクラ・八千回)印を契る頃には、神の稜威力(いずち)が通じて神意(しんい)が表われるのを感得しました。
 アメノミオヤ神の眼(まなこ)から漏れ出る日霊と月霊そして天元(アモト)神に三十二(ミソフ)神がお守り下さるゆえ、必ずや子種に恵まれんことを覚えました。

 この頃、イサナギ、イサナミはやはりハラミ山に登って日毎に朝日の出る東方に向かって百拝(ひゃくはい)を重ねていました。そんなある日両神は共にお互いの悩みを話し合われて、
 「私達は、一緒に全国を巡幸して国の再建を計り、民を豊かに治めて平和な国をつくりました。すでに姫皇子(ひめみこ)は生まれたものの国の政(まつりごと)を継ぐ嗣子(つぎこ)に未だ恵まれませんので、先の楽しみがありません」と素直に打ち明けました。

 二人はこの後、ハラミ山頂の子代池(このしろいけ)の池水で左眼を洗い日霊に祈り、右眼を洗って月霊に祈り、イサナギはシコリドメ(石凝姥)が鋳造して君に捧げた真澄鏡(ますみのかがみ)を二枚取り出すと、それぞれ日と月にたとえ両手に捧げ持って神の出現を乞い願いました。八峰(やつみね・富士八峰)の首巡り(お鉢巡り)の行を通して、その間にアグリ(天恵)を乞い願い続けました。日を重ねて行が丁度千日目になる頃に御魂(みたま)がチリケ(身柱)の門の紋所(かどのあやどころ)に入るのを感じると同時に、白脛(しらはぎ)が桜色に染まりました。
 ある日男神が女神に生理を聞くと、姫の答えは、「月経(ツキノオエ)も三日前に終わり今は身も清くなりましたので、日の神をお待ちしています」と答えると、男神も思わず微笑んで、共に旭日を拝むとどうでしょう、日の輪が突然飛び降って両神の前に落ち留まりました。二人はおもわず日の霊(たま)を抱くと恍惚境をさまよい、やっと夢心地から醒めた後も心は潤い心地良く宮に帰り着きました。

 お帰りを心配してお待ちしていたオオヤマズミが、早速二人に笹神酒(ささみき)をお勧めすると、イサナギは女神に、「トコミキ(床神酒)の意味を知っているかね」と尋ねました。
女神の答えは、「はい、コトサカノオ(事解雄)から作法を聞いております。床神酒は先ず女が先に飲んで後に男に勧めるのが習わしです。床入りの時は女は先に言葉を掛けずに、男の素振りや様子を察して床に入り性交します。又舌液(シタツユ)をお互いに吸えばもっと打ち解けて、玉門川(タマシマガワ)の内宮(うちみや・子宮)に子種が宿るのが嫁ぎ法(トツギノリ)で、子を整うる床神酒は、国生む道の教えぞと、伺っております」
 このように教えに従って交わって孕んだものの、十ケ月経っても生まれず、年月を経れどもやはり生まれないので両神の心労は増すばかりでした。九十六ケ月目になってやっと臨月を迎え、備わりご降誕になられたのがアマテル神でした。

 二十一鈴(フソヒスズ)、百二十五枝(モモフソイエダ)、年キシエ、初日がほのぼのと出ずる時に、丸い玉子の御形(みかたち・袋子)でお誕生になられた天子(みこ)のお姿を、皆一様に不思議でいぶかしく思いました。
 この時、御祖翁(みおやおきな)のヤマズミがご降誕を祝して言寿ぎ(ことほぎ)をされ、感極まって朗々と詠い上げました。

宣(む)べなるや  雪(幸先)のよろしも
御世嗣(みよつぎ)も  代々(よよ)の幸い  開けり
と、一晩中に渡り寿(ことぶ)き心から国の未来を喜び祝って、詠うその回数も三度(みたび)に及びました。
 雪(幸先)もよろしい。玉子の姿で生まれた天子の姿に対する人々の疑問に翁は答えました。
 「トヨケ(豊受)の神の教えにあります。害を及ぼすハタレ(悪魔)の一派イソラの障害から君を守ろうと身を固めて祈祷したので、生まれ出た時自然に玉子に守られていたのは幸運の記しです」
 玉の岩戸を開けとばかりに一位(いちい)の木の笏(さく)の先(はな)を持って、今こそ天の戸は開かれんと胞衣から御子を取り上げました。その時出ずる若日が天地に輝き渡り、イサナギの妹のシラヤマ姫が御子を産湯につかわせました。両神初め諸臣、民の喜びはたとえようもなく、唯々歓喜の声が万歳(ヨロトシ)、万歳(ヨロトシ)の波となって国中に伝えられました。
 先にアカヒコ(赤彦)は桑の繭(まゆ)から糸を引いて紡ぎ、ナツメ(夏目)が織って産着に仕立ててこの御衣を奉りました。
 母のイサナミは長期間の懐妊の疲れから乳の出が細かったので、広く乳母を求めて、ホイイの神のミチツ姫(満乳津姫)が添え乳(そえぢ)をして御子を養育しました。が、しかしいつまでも瞳を閉じた天子に月日は無く時は止まったままです。この間両親の心配は絶えませんでした。やっと七月十五日(ハツアキノモチノヒ)に開いた両眼の潮の目の愛らしい事、民の拍手(てうち)の喜びに母の疲れも消え去るみ恵みでした。
 天に棚引く白雲の掛かる八峰(やみね・富士八峰)に降る霞(あられ)、日の達する国の隅々に丹子玉(ニコダマ)となりこだまするこの瑞兆(みず)を、布に表わして八豊幡(ヤトヨハタ)を作り高御座(たかみくら)の八隅に建ててここに即位し君となられました。

 玉子の姿で生まれたアマテル神を取り上げる際に、被っていた胞衣(えな)を割くのに用いた、位(くらい)の山の一位の笏(さく)をこの時関係者一同に賜わり、以来子々孫々笏を持つ者は神の末裔(まつえい)となりました。

 叔母姫(白山姫)がコエネ(扶桑北)国で織った御衣を進上する際、天子(みこ)の泣く声が「アナウレシ」と聞こえたので、これが君の最初の言葉となりました。これを知った諸神達が叔母姫に是非お名前を聞いてほしいと懇願して、姫から天子(みこ)に問うたところ、自ら「ウヒルギ・大日霊貴」とお答えになられました。
 この声を良く聞き切ってみると、天子は自分の幼名(おさなな)を名乗られ、その意味は、「ウ」は大いなり、「ヒ」は日の輪、「ル」は日の霊(ちまた)、「ギ」は杵(きね)で、杵は女夫の男の君を表わします。このようなわけで、君の幼名(オサナナ)はウヒルギの天子(みこ)となられました。

 両神は叔母が「良くぞ天子の名を聞き切ってくれた」と大いに称えて、キクキリ姫(菊桐姫)の名を新たに賜いました。
 ああなんと天子の賢くも尊い最初のお言葉でありますことか。
赤玉(あかたま)の  若日霊(ワカヒル)の霊(ル)は  青き玉
暮日(くれひ)の御霊(みたま)  烏羽玉(ぬばたま)なりき

 真赤に昇る新年の初日とともに、ご降誕あらせられた天子様、若き日の
御霊は青き未来を密めておられます。紅色(くれない)の日暮れの
太陽は大きく輝いて、今宵の夢を育む烏羽玉色です

 久方の朝日とともに降誕された君の初の大嘗祭(だいじょうさい)が十一月半ば(旧冬至)に、厳粛に執り行なわれました。

 アユキの宮(悠紀殿・ゆきでん)にはアメトコタチ(天常立神)の九星(コホシ)を勧請して祭りました。アメノミナカヌシ(一)神とトホカミエヒタメの(八)神です。ワスキの宮(主基殿・すきでん)にはウマシアシガイヒコチ神(可美葦牙彦道神)の十一神を勧請して祭り、その神々は方位を守るキツヲサネ(東西中南北)の(五)神と、アミヤシナウの(六)神です。君の即位を天の九神と地の十一神にご報告して、君はめでたく天、地、人の信任を受けて正式に君となられました。

 両神は天御子(あめみこ)を立派な指導者とすべく昼夜御心を尽くして養育され、思えばここハラミノ宮にすでに前後十六年間もお住まいになられたのも、あっという間の一日の出来事のように思われました。それもこれも天子への熱き愛情と深き恵みの賜物ゆえのことです。

 以前の事です。タマキネは桂城山(かつらぎやま)で八千回に及ぶ禊(みそぎ)をして世嗣社(よつぎやしろ)に誓いを立てて満願かなった後に、桂(かつら)材で鳳凰(イトリ)の鳳輦(てぐるま)を初めて造り、桂のお迎えと称してハラミノ宮に参上しました。
 その時の様子は、突然の天御子(あめみこ)お迎えの報に両神は夢心地で出迎えお会いになると、正にトヨケご自身が遠路を押しての来訪で、驚くやら嬉しいやらでそれはもう感無量の一大事でした。
 両神とトヨケの話す話題は一にも二にも天御子の教育方針に終始しました。話が一決すると我が子を抱いた母親が、天子(みこ)共々ヤフサコシ(八房輿)にお召しになり、御乳津母(オチツモ)及びトヨケはケタコシ(方丈輿)に乗っていました。その後を供の者達が続いて、ゆらゆらと日の出の国ヒタカミへと向われ、全員無事に方壷(けたつぼ)のヤマテ宮(仙台宮)に入城しました。

 その時のことです。天子(みこ)の玉体が燦然と輝きを発ち、瑞光四方に照り徹(とお)ったかと思うまに、八方(やも)に黄金(こがね)の華が咲き、海の真砂や魚、山の草木も黄金色に染まりました。
 この光景に感動したトヨケは、天子に日の若宮のワカヒト(若仁)という真名(いみな)を奉りました。両神は天御子の威光に恐れ入って、  「我が宮には過ぎたる君、これ以上親元において育てる自信がありません」と言い残して、高天原(宮中)に天子を上げるとオキツノ宮(瀛洲宮)に帰られました。

 ヒタカミの国のヤマテ宮に入られた天御子は、アマツミヤ(天つ宮)で来る日も来る日もアメナル道(天成道・帝王学)を真摯に学ばれ、お側にはいつもフリマロ(振麿)が一人ご学友として侍っていました。
 このフリマロは六代目タカミムスビ、ヤソキネの世嗣子で、生涯に渡りアマテルカミを補佐して政を執られたタカキネです。  タカミムスビ五代目のタマキネは、天御子の祖父(おじ)として、又厳格な教師(おしえど)として毎日天つ宮(あまつみや)に詣でて、クニトコタチの永遠なる思想、人の道の奥義である天成道(アメナルミチ)を講義されました。

 ワカヒト君は深く真理を求め天道の奥義を追求してやみませんでした。そんなある日のこと、君はタマキネにこの様な質問をされました。
 「真名(まことな)をイミナと称して、姉の名は三音(みつ)我は四音(よつ)なのはいかなる訳(わけ)ですか」  タマキネは天子の向学心に感じ入りながらも、やさしくお答えになりました。
 「イミナ(真名)の男名(おとこな)が四音(よつ)なのは、まず父母からの二音(ふたつ)と世嗣(よつぎ・姓)に名(な)宣(のり)の二音(ふたつ)を合わせて四音(よつ)になります。天つ君は一(ひ)から十(と)までを完全に備えて人の上に宣(の)るので仁(ひと)と名宣(なの)ります。
 しかし女性は名宣(なの)らないので、二親からの二音(ふたつ)と、男性と結ばれて子供を生むので、何子姫又は子何姫や何於(ナニオ)や於何(オナニ)とも名付けます。これにより女性の名前は三音(みつ)で男性の名が四音(よつ)となります。
 又、タタエナ(称名)は、その人の功績次第で、たくさん付けるべきです。
 この様にイミナ(真名)というのは、人格や血統(シム)にまで影響するので真心を込めて付けるべきです」

終り

出典
ホツマツタエ(国立公文書館蔵)
秀真(ほつま)政傳紀(和仁估安聰訳述)
高畠 精二