ワカ姫の恋、和歌(ワカ)初め
イサナミの父トヨケ(伊勢外宮祭神・豊受大神)は、天神六代目のオモタルとカシコネの両神(フタカミ)に世嗣(よつぎ)の皇子(みこ)が無いのを大変心配しておりました。
この神々は八洲(やしま)をくまなく巡って新田開発を進め、民の暮らしを豊かにし国の統一を計りました。しかし嗣子(つぎこ)に恵まれないばっかりに、両神亡き後、国は再び千々に乱れて民は土地を離れてさまよい、物乞や盗みが横行して巷には餓死者があふれていました。良き君を失った民の心に暗雲がたちこめ、皆病に苦しんでいました。
事ここに極まった時、トヨケは一大決心をします。自分の娘のイサコを、先祖の遠戚に当たるタカヒトと結婚させ七代目の皇位を嗣がせることにします。
本家筋のトヨケの願いとはいえ、イサコはヒタカミの国(旧、陸奥)で育ち、タカヒトはネの国(北陸)の出身です。若い二人とはいえ、言葉や習慣の違いを乗り越えるのには時が必要でなかなか同意しませんでした。二人の仲を最初に取り持ったのはハヤタマノオですが、結果を急ぎすぎて失敗に終わってしまいました。次に仲人を買って出たコトサカノオは、じっくりと事の大切さを解いて聞かせた甲斐あって、やっと橋渡しに成功して二人は一緒になることに同意しました。
イサコの慣れ住んだ仙台地方と、タカヒトの育った金沢からお互いに歩み寄ったツクバに二人のために新しい宮を建てることになりました。この宮はイサ川(現・桜川)から少し離れた台地に造られたので、イサ宮の離宮と呼ばれました。
新築なったイサ宮でタカヒトとイサコは、お互い心を開いてうなずき合い、生涯一緒に国の再建に身を尽くすことを誓い合いました。この日以来タカヒトはイサナギを名乗り、イサコはイサナミを名乗って七代目の天神となりました。
イサナギとイサナミがツクバのイサ宮で新婚生活に入った時のことです。
コトサカノオがお二人になんとか打ち解けてもらいたいと考え、床入りのササ神酒(みき)をお進めしました。先ず男神が女神に進めて、女神が先に呑んだ後男神に進めて呑みました。この後男神が女神の体調を尋ねると、イサナミが答えて、「私には備わっていますが、何かが足りない女陰(メモト)というものがございます」
イサナギも答えて、「実は私には余りある物があります。お互いを和合(アワ)させて子供を産みましょう」と言って二人は床入りし、情熱のおもむくままに交わって子供を孕(はら)み、誕生した女の子の名前は、昼に生まれたのでヒルコと名付けました。
しかしながらヒルコが生まれた年は、父イサナギ40歳、母イサナミは31歳で、2年後には男42歳、女33歳の天の節で大厄に当たります。
運悪くこの節目に悪霊(あくりょう)が宿れば、女の子は父の汚(けが)れに当たり、男の子は母の災いとなるといいます。
ヒルコは両神の慈しみを一身に受けて育てられ、まだ三年にも満たないというのに、親の元から引き離されて岩樟船(イワクスフネ)に乗せ捨てられました。下流でカナサキ(住吉神)が拾い上げて、妻のエシナズの乳を得て何不自由なく我が子同様に育てられました。
実はこの時、妻エシナズは不幸にも我が子を失ったばかりでしたので、それはもう我が子に再開したような喜び様でした。
カナサキはいつも優しい潮の目でヒルコを目守ってやり、「アワウワヤ」と手拍(てうち)をしてあやしていました。ヒルコの誕生日には炊きごはんを神様に供え、初めて食事のとり方を教えて、立居振舞も手を取って習わせました。
三年目の冬には髪置(かみおき)と言って、幼児が初めて髪を伸ばす儀式も済ませました。新年元旦は餅をつき天神地神に供えてから、親族が集まって新年を祝いました。三月三日の桃の節句には雛祭をして遊び、五月五日は菖蒲(あやめ)を飾って粽(ちまき)を食べました。七月七日は七夕(たなばた)祭で、九月九日は菊の花と栗を供えるお祭です。
五年目の冬には男子は初めて袴(はかま)をはいて、女子は被衣(かずき)を着ます。又5歳からは常にアワ歌を教えて言葉を正します。
この様な年中行事を経たヒルコ姫は、今では美しい乙女に成長しました。厄もきれいに川の水に流された今、再び両親の元に呼び戻されて、兄の天照神の妹(イロト)として復活し、ヒルコの名もワカヒルメと変わりました。
先にイサナギ、イサナミはツクシ(筑紫)に行き、ツキヨミ(月読)を産み育てました。ツキヨミは日の光を受けて輝く月として、兄天照の政務を助けるようにと、後に宮中に上がりました。その後両神は、ここソサ(現・熊野)に来(キ)たりて宮殿を建造して静(シ)かに居(イ)ましたので、この地方をキシイ国(紀州)と言いました。
ここでもイサナギは、クニトコタチ(国常立)の常世(とこよ)の花である橘樹(たちばな)を植えて国造りをしてトコヨ里と呼びました。先に捨てられたヒルコ姫も、今は母とともに睦まじく生活(くら)しました。頃は春、花の下(もと)で歌を教えてもらっている最中に母が出産し、男の子を産んだので名前をハナキネと付けました。成長して後のソサノオ(須佐之男)です。
ここソサ(熊野)で成長したハナキネは、母譲りの美貌と歌の才に恵まれた姉に、歌について質問をしました。
「和歌はなぜ五・七調に綴るのですか」姉は、「それは天地(アワ)の節(ふし)です」と答え、又ハナキネが問うて、「それでは何故、祓(はら)いの歌は三十二文字で、一般には三十一文字なのですか」すると姉は、「和歌の三十一文字は大変理にかなっていて、天を巡るこの地球(クニタマ)の公転(メグリ)は一年を三百六十五日で回ります。この一年を四季に分け、又、上旬、中旬、下旬に分けると、約三十一となりますが、月の方は少し遅くて三十足らずです。しかし真(まこと)は三十一日です。五月から八月の間は約三十一日強となり、後が先に掛かるので三十二日にもなります。この変則の間(ま)を窺(うかが)う汚(けが)れや、災いを祓う歌の数が三十二です。
美しく四季られた敷島(しきしま)の上に人として生を受けた私達は、男子は三十一日目に産土神(うぶすな)にお礼参りをし、女子は三十二日目にお礼参りをするのも、この地の恵みに感謝するためです。これにより敷島を和歌の道と言います」
その後、時移りアマテル神(天照神)がイサワの宮(伊雑宮)に坐して政治(まつり)を執っておられる時の事です。
キシイ(紀州)の国から矢継早に伝令が飛びきたり、「キシイの稲田(いなだ)にホオムシが大量発生して、稲が大被害を受けました。一刻も早くオオン神(天照神)の御幸(みゆき)をお願いして、稲虫祓いをしてください」と繰り返し願い出ました。
運悪くその時オオン神は、トヨケの神の亡き後を継いでアメノマナイ(真奈井)に御幸(みゆき)後の事でした。民の嘆きを聞いたムカツ姫(中宮・セオリツ姫ホノコ)は、何とかして民の嘆きに答えたい一心から、とりあえずワカ姫共々現地に馳せ参じて、行動を開始しました。
ワカ姫は先ず、田の東に立ってオシ草(玄人)を片手に持ち、もう一方の手に持つ桧扇(ひおうぎ)で扇ぎたてて、即興の歌を詠みながらホオムシを祓いました。すると虫が飛び去ったのを見たムカツ姫は、三十人の姫達を二手(ふたて)に分けて田の左右に佇(たたずま)せて、皆一緒にワカ姫の作った稲虫祓いの和歌の呪(まじない)を歌わせました。
くりかえし、繰り返しして三百六十回歌い続けて、最後にオシ草と桧扇(ひおうぎ)を皆が一斉にどよませ大声を上げれば、虫はザラッと一気に西の海の彼方へと飛び去り、稲田は元の様に鎮(しず)まりました。
これが稲虫祓いの和歌の呪(まじない)です。
このワカ姫の歌により無事災いは祓われて、再び稲は元通りに若やぎ、蘇(よみがえり)りました。
秋にはゾロゾロと稲穂も揃って実り、暗い鳥羽玉(ぬばたま)の夜が明けます。この秋、民百姓は大豊作を迎え、豊かな糧(かて)を得て喜び祝いました。民の顔も明るく晴れて、お二人への返礼として感謝の心をこめアヒノマエ宮(天日前宮)とタマツ宮(玉津宮)をお造りいたしました。
アヒノマエ宮は中宮ムカツ姫のご滞在になられた宮で、タマツ宮はワカ姫のために捧げられた宮です。後にムカツ姫はイサワノ宮にお帰りになられたので、アヒ宮をクニカケ(国衛)として残し、ムカツ姫の御陰(みかげ)を世々に伝えました。(現・国懸神社)
ワカ姫の歌の御霊(みたま)を留め置くのがタマツ宮です。
枯れたる稲を歌の力で若返らせた心意気を残そうと、この国の名を和歌の国と名付けて今日まで伝えています。善良で気持ちの良いキシイの民は、ワカ姫を心から歓迎してお仕えしました。ワカ姫も又、民の心ばえに良く応えて、この美しい和歌の浦に一人留まり、民の心を和して政(まつり)を執り静かな時を過ごしました。
そんなある日のことです。アマテル神のオシカ(勅使)としてタマツ宮に遣(つか)わされたアチヒコ(阿智彦)に会ったとたん、ワカ姫は恋焦(こいこが)れてしまい、苦しい女の胸の思いに耐え兼ねて和歌の歌を詠み、歌冊(ウタミ)に染めて思わずアチヒコに進めてしまいました。アチヒコも何気なくつい手に取って見れば、
「紀州にいらっしゃい。私は貴方の妻になっていつも御身(おんみ)の近くで琴を奏(かな)でてさしあげましょう。寝床ではいつも我君(わぎみ)を恋しい思いでお待ちしています」
これを見たアチヒコは突然の恋の告白にたじろいで、思えば仲人(ハシカケ)もなしにどうして愛を結ぶことができようか。と、何とか返歌せねばと思えば思うほど焦りが先にたってついに返せず、言葉(コトノハ)に詰まって、「待って下さい。後日必ずお返しします」と言うや、その場を何とかつくろって持ち帰り、宮中に走り至ると諸臣(もろとみ)に相談しました。何しろアマテル神の美しい妹に恋されたのでは、うれしいやら困ったやらで戸惑いを隠せません。
と、一部始終を聞いていたカナサキ(住吉神)が静かにお話しを始めました。「この歌は、受けたからにはもう絶対絶命、返事(カエゴト)ができない上から読んでも下から読んでもグルグル巡りの回文歌(マワリウタ)です。私もアマテル神の御幸(みゆき)のお供で船に乗っていた時のこと、暴風が激しくて波が高いのを打ち返そうと回文歌(マワリウタ)を詠み、
と詠ったところ、やがて風が止んで波は静かになり、船は心地よくアワ(阿波)の湊に着きました」と話されました。
しかしそれを聞いても、アチヒコの心は未だに乱れて落ち着きません。「ワカ姫に返歌をしなければ。愛にどう答えればよいのでしょうか」と、又聞けば、ここでアマテル神の詔がありました。「今こそ、カナザキの船に乗り受けて夫婦(メオ)となるなり」
この後、アチヒコとワカ姫はカナサキの船が縁をとりもち、今はヤス川(野州・やす)辺に宮を造り、名もアマテル神の妹シタテル姫となり幸せに暮らしました。
この頃、中宮のセオリツ姫は伊勢のオシホイ(忍穂井)の耳(みみ・縁)に産屋(うぶや)を造って日嗣(ひつぎ)の皇子(みこ)を無事出産されました。オシホイに因(ちな)んで真名(イミナ)をオシヒトとつけ、称名(タタエナ)をオシホミミと聞こし召しました。イサナギ存命中はタガ(多賀)の若宮で育てられましたが、いよいよイサナギ臨終の時に及び、君はオモイカネとワカ姫に養育を託されました。
今はアメヤスガワ(天野州川)辺で、オモイカネとヒルコ姫は皇子(みこ)オシヒトを守り育てられながら、ネ(北陸)とサホコチタルクニ(山陰)を同時に治めて、伊勢(男女の絆)を結んで夫婦協力し政(まつり)を執っていました。この時期に誕生した男子の真名(イミナ)をシズヒコと言い、称名(タタエナ)はタジカラオ(手力男)です。
宮中では、日増しに激しさを増すソサノオ(須佐之男)の乱暴狼藉にホトホト手を焼いていました。ソサノオはアマテル神の后の一人を過失とはいえ死亡させるという取り返しのつかない罪を犯して、今度ばかりは宮号(みやごう)も剥奪されて、下民(したたみ)として宮中を追われてサスラオに身をやつしさまよい歩きました。
さすらいの苦しい日々にいつも思い出すのは、唯一やさしかった姉のワカ姫です。せめて一度だけ会いたいとの願いがやっと許され、ヤスカワ辺へと向いました。
ソサノオがヤスカワの宮に近ずくと大地は踏み轟(とどろ)いて鳴り動き、驚いた姉のワカ姫は、最近のサスラオが狂暴で危険なのを以前から聞き知っていたので、宮の戸を固く閉ざして中に入れませんでした。「弟(オトト)の来るのは、良いことなどありえない。たぶん父母がソサノオに遺言した任命(ヨサシ)の国、ネ(北陸)とサホコチタルクニ(山陰)を取ろうと窺(うかが)いに来たに違いない」と、言い放ちました。
この時のソサノオの風体(ふうてい)は、揚巻(あげまき)をして裳裾(もすそ)を束(つか)ね袴(はかま)とし、大きな身体(からだ)に五百個の玉を巻き付けて、腕には千本入りの靫(ゆき)と五百本入りの靫(ゆき)を両肘にくくり付け、弓弭(ゆはず)をブンブンと振り回しながら、片手に剣を持って突っ立っています。ソサノオいわく、「何を恐れているのだ。昔、遺言によりネ(北陸)に行けとあったではないか。姉に目見(まみ)えてから後に行こうと、遠路はるばる会いに来たのだ。疑わずに善意を見せてくれ」と。姉いわく、「真意(サゴコロ)は何(なに)」ソサノオ答えて、「ネ(北陸)に着いた後に子をつくり、もし女子(メ)ならば我が身の汚(けが)れ、男子(オ)ならば潔白なり。これ誓いなり」と言い残して立ち去りました。
実はワカ姫には、弟ソサノオの仕業(しわざ)の真意を質(ただ)すべき心のわだかまりがありました。それはアマテル神の后の一人コマス姫ハヤコと弟との密通事件です。姉が唯一心を痛めるのは、この不祥事の後にハヤコが産んだ、まだいたいけな三人の女の子の行く末でした。
アマテル神は后と弟の情事を知ってからも、この子達は自分の宝であるとは言ったものの、結局はツクシ(九州)のウサ(現・宇佐八幡)に遠流(おんる)と決まりました。
ハヤコとハヤコの姉モチコ及び三人の女児の5人は、不承ながらも中宮ムカツ姫の説得を受け入れてツクシに下りました。しかし、中宮の決定を怨んだモチコとハヤコは、三児をウサに置き去りにしたまま故郷に逃げ帰ります。そして弟ソサノオの名を語って、「功をたてれば国神(くにかみ)にとりたてよう」との流言を流し、アマテル王朝への反乱を計り、この後八年間に及ぶ内乱の苦しみの淵へと国中が呑み込まれていきました。
又ある日ある時、クシキネ(大己貴)が諸国を巡って農業指導をしている時のことです。災害で食糧の乏しい村民の訴えに、つい誤って獣の肉食を許してしまいました。と、天罰が当たりその年の秋、村の稲田に稲虫が大量に湧き出て葉を食い荒らしてしまいました。驚いたクシキネはシタテル姫の坐すヤスカワに馳せ参じて、稲虫祓いの教え草を習い覚えて急ぎ帰り、オシ草(玄人)を持って扇(あお)ぐと、やはりホオムシは去って稲は若やぎよみがえりました。その秋豊作となったので、喜んだクシキネは、自分の娘のタカコ(高子)をシタテル姫の元に奉りました。
その報を聞いたアマクニタマ(天津国玉)も感激のあまり、娘のオグラ姫(小倉姫)をこれも捧げて仕えさせました。シタテル姫は二若女(フタアオメ)を召して八雲弾琴(ヤクモウチコト)の音(ね)を二人に教えて楽しみました。
後にワカ姫が日垂(ひた)る時(臨終)に、ヤクモ(八雲弾琴)とイススキ(五弦)とカダガキ(三弦琵琶)の奏法をタカ姫に免許皆伝し、タカテル姫の名前を新たに賜わりました。又和歌の奥義を記したクモクシ文(雲奇文)は、オグラ姫に捧げて、なおも自分と同じシタテル姫を襲名させ、神上(かみあ)がってから後に、和歌国(わかくに)のタマツシマ(玉津島)に祭られてトシノリ神(歳徳神)と称えられました。
アマテル神は自ら日の輪(太陽)にお帰りになることを決心され、諸臣、諸民を集めて、后(きさき)のムカツ姫に遺し法(のこしのり)をされました。
「私の亡き後、ヒロタ(現・広田神社)に行ってワカ姫と供(とも)に余生を過ごし、女意心(イゴコロ)を守り全うしなさい。私もトヨケ埋葬のこの地マナイガ原でサルタに穴を掘らせて罷(まか)ろうと思う。我はトヨケと男(オセ)の道を守らん。これ伊勢(いせ)の道なり」と、のたまい洞(ほら)を閉じさせました。
終り
- 出典
- ホツマツタエ(国立公文書館蔵)
秀真(ほつま)政傳紀(和仁估安聰訳述)
- 訳
- 高畠 精二