タケヒト・大和討ち

神武東征

 カンヤマト・イワワレヒコの天皇(すめらぎ)は、父御祖天皇(みおやあまきみ)の四番目の御子として生まれました。母はタマヨリ姫、兄のイツセはタガの親王(をきみ)です。父、御祖天皇は十年もの長きにわたり九州に御滞在になり農業開発と治安に努めた政治を執り、今では民も豊かに平和に暮らしておりました。父が神上がられる時、天皇(あまきみ)の位をタケヒトにお譲りになつた後に、宮崎山の洞に自ら入られ神上がり、後にアヒラの神となられました。九州の国政を担って政を執るタケヒトには、タネコという有能な補佐役がおられ、共に協力して国の安定に努めたために、国民は益々豊かになり、政治も安定して、永く平和な歳月が続いていました。

 ところが静かで安定した歳月にもついに波風がたち初め、やがて憎しみの渦がむら雲となって、あっという間に全国を覆いつくし、国が乱れ初めるのを誰一人として止めることができませんでした。

 その頃、大和のニギハヤヒに仕えていたカグヤマノ臣(とみ)を名乗るナガスネヒコが、ある事件を引き起こします。事の発端は、ニギハヤヒと結婚した妹のミカシヤ姫になかなか世嗣子(よつぎこ)が恵まれないのを心配した兄ナガスネがアメオシクモによって春日大社の蔵に大切に秘蔵されていた、「世嗣紀」(よつぎふみ)を無断で持ち出し、勝手に書き写してしまいました。蔵守(くらもり)の直訴により事件が発覚します。事の重大さから国政を司どる大物主クシミカタマは、何度もナガスネに勅使を送り真意を問い正しますが、まともな返答が得られません。「蔵守が事は何か知らん。我存ぜず。」と突っぱねます。

 実は、時の天皇が遠い九州に居られるという事情から、葦原中国(あしはらなかくに)の政治に空白が生じ、それを良い事に、日頃からナガスネは、掟を乱す勝手な振る舞いが、目だつようになり、天をも恐れぬ傍若無人な態度に、良民から次々と訴えが届きます。事ここに至っては、もはやナガスネを抑えられる人とてなく、世の中が不穏な空気に包まれて、騒がしくなっていくばかりでした。

 その頃の慣例として、大和のニギハヤヒの王朝に対して、関東・東海地方を治めていたハラ親王(おきみ)から、同胞(はらから)としての好意で、初穂(年貢米)を上納し大和の政権を支えていました。ハラ親王がナガスネの行為に対してケジメをつける為に、一時食糧支援を中止する決定をするや否や、ナガスネは全国の船の運行を武力により止めて、特に中国(なかくに)の最重要な河川の交差路だった山崎の関を無謀にも武力によって封鎖するという敵対行為に及びます。
 タガに居て、タガ親王を守護し、葦原中国と山陰・北陸地方を兼ね治めておられた右大臣の大物主は、直ちに軍を率いてナガスネに戦いを挑み討ちとろうとしました。全国の物部(兵)の指揮を執る大物主の素早い決断に、何不自由なく、有能な臣下に助けられ政務に専念してこられたタガ親王は、大変驚いて、ツクシ親王の弟のタケヒトの元に逃げ下ってしまいました。

 丁度その頃タケヒトは、アタの県主(あがたぬし)の娘アビラ姫を娶り、お生まれになったのがタギシミミでした。君が四十五才になられた年の事です。世間に流行歌(はやりうた)が蔓延します。

乗り下せ  秀真路(ほつまじ)
弘(ひろ)む  天磐船(あまのいわふね)

 この歌を知ったシホツチの翁(おきな)は、タケヒトに東征を勧め、「ニギハヤヒと臣(とみ)ナガスネの勝手な振る舞いで中国が乱れて国が危ない。タケヒト汝行きて断固戦い、平定せよ」と、力強い支援の言葉を受けて、居並ぶ諸神(もろかみ)も異口同音「そうだ、当然だ」「先の世嗣紀の答えもだ。打て。君よ、一日も早く我ら率いて御狩に発たれよ」「今、国を救う者はタケヒト君をおいて誰あらん」と、強い熱気が立ち上り「万歳(よろとし)万歳」の歓喜の声が日隅(ひすみ)にこだましていきました。

 十月(かんな)三日、タケヒトは自ら指揮を執り軍船を引き東征の旅に発ちました。分乗した船には供の武将や多くの物部等に混じった、皇子(みこ)や臣(とみ)も思いは一つ、命をタケヒト君に預けた片道の船旅です。船が速吸門(はやすいと)にさしかかると、一漁船がタケヒトの指揮する親船に近付き、何やら大声をかけるのに出合います。アヒワケが何者か問うと、何と国神のウツヒコとの返事です。
 「天御子の御幸を、私が曲田浦(わだのうら)に魚釣に出かけた時に聞いて、お迎えに上がりました。どうか私共も一緒に君の御軍にお供させてください。」と、願い出ました。
 「それなら先ず、水先案内をしてくれるか」
 「あい」と、答えると、船にあった椎の竿の根元を持たせて親船に引き入れます。それを見ていたタケヒトの詔があり、「椎根津彦(しいねずひこ)」という名前を賜わりました。

 椎根津彦の水先案内で行く船は、順風をいっぱいにはらんで、やがて宇佐につきました。宇佐では宇佐津彦が、ヒトアガリ仮室(や)で、君、臣(とみ)一行の歓迎の饗を開き、その時、君の膳(かしわで)に御仕えしたのがウサコ姫でした。君の側近として同席したアメタネコは、ウサコ姫のたおやめぶりが大層気に入られ、父ウサツヒコの許しを受けて妻として、後に二人はツクシの勅使(おし)となられました。
 その後、船出して安芸(あき)の国のチノ宮で年を越し、その年四月(やよい)には吉備国(きびのくに)に行幸され、タカシマ宮で中国(なかくに・中国地方)の政務にあたられます。
 ナガスネヒコの反乱でタガ親王(をきみ)を欠き、一人で大物主として、全国の兵(物部達)を統轄してきたクシミカタマは、タケヒトを援護して密に連携しあいます。タケヒトは長期戦に備え兵糧の備蓄、武具の調達、兵の訓練等々、軍備を整えるためにタカシマ宮に三年間ご滞在になりました。

 再び船を連ねて出航し、二月(きさらぎ)に、三津御崎(みつみさき)に至ると、流れが急になり、速浪(はやなみ)の渦巻くところは真に浪の花を見るような壮観です。心打たれた君は、上陸地の港を浪速(なみはや)と名付けました。
 浪速の港からヤマト川を河内の草香邑(くさか)まで逆上り、県主(あがたぬし)のアウエモロの館につきます。
 大物主クシミカタマとの打ち合わせどうり、当地の兵と合流し、いよいよ軍(いくさ)の準備もすべて整います。また土地勘のあるアウエモロを指揮官としタツタ街道をとうり大和への遠征をこころみますが、タツタ街道は兵が二人並んで進めないくらいの難所が続き、戦術的にも危険が多すぎます。とって返し生駒山を東に一気に越え、大和盆地に進軍しました。
 迎え討つナガスネ軍の反撃はすさまじく、ナガスネが、「我が国を奪えるものか」と、言うや戦いを挑み、特にクサエ坂の合戦は激しく、イツセ皇子は流れ矢に肘を射られ、神軍(かみいくさ)も大苦戦します。スベラギも戦略的変更を余儀なくされ、一時撤退を全軍に触れます。  「我は日の神の子孫(まご)、この戦いは、日に向かって弓を引き、天(あめ)の御心に逆らっていた。潔く一旦退いて神をお祭りし、日の御影に従って戦いに挑めば、必ず敵(あだ)は破れて我らが勝利間違いなし」
 この詔を受けて諸神も皆、「しかり、もっともだ」と、兵を引き、ヤオ(八尾)まで退却しました。敵の追撃もありませんでした。

 再び船団を組み東進しはじめたところ、停山城(ちぬのやまき)の港で、イツセの皇子(みこ)が、肘に受けた矢傷で無念にも、タケヒトに託した思い半ばのまま戦死されました。紀伊国(きいくに)のかま山の地で葬祭を行い、この地に手厚く葬りました。
 近くの名草村(なぐさむら)の名草戸部(なぐさとべ)なる者が、この葬儀に反抗し、邪魔だてするので、成敗した後、軍団は再び進み行き、熊野神と速玉(ことさか)の神に和幣(にぎて)を捧げて武運を祈り、海に戻り、敵の背後から良き上陸地を探し、盤盾(いわたて)の沖を迂回して船を出したところ、突然暴風雨の襲来に合い船は遠く沖に流され、寄る辺なき木の葉の如く翻弄され、船団は闇にのみ込まれ、ちりじりとなってあわや海の藻屑となる寸前でした。この時、この苦難にじっと耐えて、黙々とタケヒトに従ってきたイナイイが突然泣きいざちて、
 「天の神よ母海神(ははわだかみ)やどうして助けて下さらないのか。陸(くが)では苦しい戦いを強いられて、また海の災いと。もうだめだ」と、言うや否や剣を抜いて海に入水してしまい、後にサビモチの海の神として祭られました。
 ミケイリもまた、荒れ狂う逆浪を恨み苦しんで後を追って入水して神になられました。
 スメラギとタギシミミは、この不幸な出来事にも耐え抜いて、戦意は少しも衰えるご様子もなく、二人とも無事にこの難局を乗り越えて、軍戦を整え次の戦略拠点の荒坂津(あらさかつ)に向かいました。
 この海岸にはニシキドという悪魔の一党共が湾内深く潜んでいて、イソラの魔術を使って毒気を吐きかけて、行交う船を奪い漁民を苦しめていました。
 スベラギの軍船は悪名高きニシキド退治に向かい、切り立つ岩山に囲まれた湾内に静かに上陸して辺りの様子を窺っていると、どこともなく炎を吐きながらニシキドの軍勢が湧き出てきました。スメラ軍は毒気を吹きかけられると、皆めまいがして、やがて太陽が幾重にも輝いて驚かしたかと思うまもなく、皆疲れ伏して戦意を失い深く眠り込んでしまいました。

 その頃、この地方に高倉下(たかくらした)という者が住んでいました。高倉下に夢の告げがあり、天照神がタケミカズチに詔りして、葦原中国が大分乱れて騒がしいので、「汝行って治めよ」と言うと、タケミカズチ神の応えは、
 「行かずとも、我が国平定剣(くにむけのつるぎ)を下し降ろせばよい」
天照神も「もっともなことだ」とお応えになり、タケミカズチは我が先祖伝来のフツノミタマの剣を、「高倉下の倉に置いておくから、タケヒト君に奉れ」「あいあい」と高倉下が答えたところで夢が覚めました。
 あまりにも奇妙な夢に驚いた高倉下が半信半疑ながら倉を開いてみると、底板に突き立った剣があり、早速タケヒト君の元に詣でて、剣を君に奉るとどうでしょう。イソラの術で長い眠りに陥っていた諸神も皆、術が解け、うそのように蘇って士気も高揚し、イソラ共を討ち果たすと再び軍(いくさ)立ちしました。

 飛鳥への山路は険しくて、時として分け入った道の末が絶えて消えてしまい、何日もさまよった挙句に同じところに戻ってきた辛い行軍でした。天皇(あまきみ)は、野に暮れて星降る夜のしじまに、岩根に身を横たえまどろむうちに、夢に天照神のお告げあり、「ヤタノカラスを道案内とせよ」と。
 目が覚めてみると、丁度目の前にヤタノカラスと言う翁が尋ねて来て、翁は飛鳥の嶺嶺を越えて道なき道を切り開いて軍を引導し、先陣を行く軍師ミチオミは、ヤタノカラスに従って嶺嶺をいくつも越えて、やっとウダのウガチ村にたどり着きました。

 早速ウダの県主のウガ主を呼びにやりました。兄は現われずに弟が参上して告げ申すには
 「実は兄は陰謀を企んでいます。君の饗(みあえ)を開いて誘いだして恐ろしい仕掛けで殺す計画です。くれぐれもご用心下さい」
 それを聞いたミチオミは、逃げ隠れしている兄ウガ主を見つけ出し問いつめたところ、兄ウガシはミチオミに対し、
 「てめいどもは、どうせ戦いに負けて遅かれ早かれ皆殺しだ。ざまあみろ。面白えや」と敵対的な汚い言葉を大声で浴びせて逃げ出しました。  ミチオミ等は、ウガシを剣や弓で追い立てて、
 「おまえの造った家に入れ」と大勢で罠の仕掛けられた家に追い込むと、天罰てきめん自らの仕組んだ罠にまんまとはまって遂に死んでしまいました。
 弟ウガシは、精一杯のもてなしをし、君を初め臣(とみ)や兵(つわもの)どもにも振る舞いをして歓迎しました。
 ウガシがスメラギ軍に従ったのを知った吉野尾上(よしのおのえ)のイヒカリという県主も、又、イワワケの国神も皆、タケヒトに帰順して出で迎えると、戦への支援を申し出ました。
 しかしまだ高倉山の麓には、兄シギ軍がイワワレの中心に陣取って、天皇の神軍(すめらいくさ)の行く手の路を塞いで動ずる気配もありません。スメラギは神に祈りを捧げたその夜、夢の告げに、「カグ山の土を採って平盆(ひらで)を造り、神饌(ひもろぎ)を捧げて、天神地祗を祭れ」とありました。
 そこへ弟ウガシが息急切って飛び込んで来て告げるには、「自分は密かに供の者を放って四方の様子を探らせたところ、未だに、磯城(しぎ)の八十タケル(やそたける)、葛城(かだき)、甘樫(あかし)等が、君に敵対しています。君の戦いを勝利さすには先ず、カグヤマの土で平盆を造って、神饌を捧げて天神・地祗を祭って、後に敵を討てばよろしいかと考えます。」と。
 このウガシの告げも正に夢合わせとなりました。
 「シイネズヒコは蓑笠姿の老人に変装し、ウガヌシは箕(み)を持つ老婆の姿に身をやつして、カグ山の峰の土を採って参れ、もし問われたらば、「昔からの占いのためです」と返答すればよい。汝らの幸運を祈る。夢ゆめ怠り無く慎みて採ってまいれ」との詔がありました。

 二人はカグ山目指して出発しました。道という道には敵が大勢たむろして、不審な二人を待ち構えています。シイネズヒコは、何とかこの難関を切り抜けようと心の中で、一心に神に祈って申しあげました。
 「我が君こそが、この国を平定できる人格神です。さすれば自ずから国は治まり、民も豊かに道も開けるでしょう。必ず、必ず」と、誓って進み行くと、敵もこの落ちぶれ老夫婦の姿を見て、皆冷やかし笑い、咎めだてることも無く、避け通してくれました。

 そんな訳で、幸運にもカグ山の峰の土(はに)を採って帰ると、君も大層お悦びになられて、早速この土で厳盆(いずべ)を造って神祭をされます。宇田のニブ川の近くに、丹後の国に祭られている朝日原の社を移して、アマテル神とトヨケの二神を祭り、祭主(まつりぬし)はミチオミに決まりました。又、ゼンミムスビの子孫のアタネは、別雷山(わけいかずちやま)の御祖神を三日間お祭りした後に、敵(あだ)を討伐しました。  君は、敵状視察に適したウダ県(あがた)の最高峰の国見丘(くにみがおか)に本陣を設営して、四方を望んで作られた御製の歌

神風の伊勢の海なる昔(いにしえ)の
八重這い求む (したたみ)の 我子(あこ)よよ我子よ
下民の い這い求め 討ちてしやまん

 御歌を、皆が一斉に歌ったところ、敵の者がニギハヤヒにこの歌を告げると、ニギハヤヒはしばし考えた末に、「サスラオはごめんだ」と大声で叫び、又言うには「天の心に則った神軍だ。我ら一言もない」と言うや、戦いを引いて退却しました。味方の兵達はおお喜びでわきたちました。
 十一月(ねずき)弓張りの日、天君は先に高倉山の麓に陣取って道を阻んでいるシギヒコに、再度使いをだします。神軍に服(まつ)ろい、君に会うよう伝えますが、兄シギは相変わらず戦陣を張って帰順しようとしません。
 再び今度は、ヤタノカラスを使者として飛ばせて説得にあたらせました。
 「天皇(あまきみ)の御子が汝を召しておられるのだ。さあさあ早く決断されよ」
 兄シギはこれを聞くと怒りだして言い放つには、「ウトウをなす神(善意を現わす神)何ぞと。ちゃんちゃら可笑しいわ。吐き気がする。そこにカラスが啼きおって、一矢(いっし)を報いてやる」と、弓を引いたので、今度は弟の家に行き、
 「君が召しているのだ。さあ早く、さあ早く」
 と、カラスが啼けば、弟シギは怖じけずけ、変心して言うには、
 「神の善意には、心から畏れ多くおもっています。もうどうなっても構わぬ」
 と言いつつ、葉盛の饗(みあい)を随員達に振る舞った後、覚悟を決めて、君の御前に詣でて、
 「我が兄は君に敵対しています」
 と申し上げました。その時君が、諸神に戦略を問うと皆異口同音に、
 「説いて、諭して、教えてもなお抵抗して来ない時には、後討つもやむなし」
 と一決しタカクラシタと弟シギとを使者に立て説得に行かせます。が、兄シギは、取り合おうともせず、受け流して聞き入れません。
 事ここに至っては、戦あるのみ。ミチオミは忍坂(おしざか)で敵を討ち、ウツヒコは女坂で敵と戦い、兄シギが逃げ行く黒坂の要所を一気に挟み討ちにします。
 ナガスネ最後の守備軍の兄シギや葛城(かたき)、生樫(あかし)等の戦は強く、味方もたじたじで、一進一退の戦にもつれこみ決着がつかないままの状態が続きます。

 その時、たちまちのうちに天が曇ったかとおもうと氷雨が降りだし、どこからともなく金色(こがね)の鵜の鳥が飛び来て、天皇(あまきみ)が手にする弓の弭(ゆはず)に止まりました。その光は四方に照り輝いて、敵味方双方の兵達を驚かせました。
 ナガスネは戦い止めて、君に対し大声で訴えるには、
 「昔、天照神の天孫が天盤船(あめいわふね)に乗って日高見の国からここ飛鳥に天下り後に天照国照(あまてるくにてる)は、ニギハヤヒ君となって、照り輝く政(まつりごと)を治めて皇統を守り、我が妹のミカシヤ姫を妃とし、生まれた御子の名は、ウマシマチ君である。我が仕える君はニギハヤヒ君だけだ」
 「天照神が御神宝の十種宝(とくさたから)を授けた正統な君であるぞ。それを神の皇孫(みまご)と偽って国を奪いにきたのか。返答せい」

 その時、スメラギは落ち着いて答えられました。
 「汝が君が真実(まこと)と言うなら、天君(あまきみ)の証拠となる神璽(おしで)があるはずだ」
 そこで、ナガスネがニギハヤヒ君の靫(ゆき)から取り出した羽羽矢璽(ははやて)を高高と揚げて天皇に示せば、又スメラギも歩靫(かちゆき)の中から取り出したのが羽羽矢の璽(おしで)。これをナガスネヒコに見せ示せと命じました。
 双方とも、複雑で割り切れない気持ちのままに守りを固めて休戦状態が長く続きました。ニギハヤヒは次第に、天君(あまきみ)の人柄と、天孫の子孫にふさわしい威光を感じるようになり、親しみを覚えて、お互いねんごろな気持ちを抱くようにすらなっていました。

 「引き替え、我が腹心の臣(とみ)ナガスネヒコは、生来の頑固者で、今回の戦いでも天地の分別を教え説いても聞く耳をもたず、不幸で厄介なことになってしまった」
 ニギハヤヒは、こう言い終わや否や涙を押し隠して、ナガスネを切り殺すと兵をひきいて天皇の御前に降伏しました。
 君も本来備わった国照宮の人柄と忠義心を誉めたたえて、イワワレの仮宮でお互い親交を温め合いました。

 年を越えてもなお網を張って抵抗するツチグモ等を、虱潰しに殺して、国の秩序の回復に専念していました。ところがアシナガグモという賊は大力(おおちから)で、迎かえ撃つタカオハリベは、背の低い小男だったので、岩木を振り回して抵抗する敵を退治することはできませんでした。そこで君は、タガの宮を一人守るクシミカタマに詔りして、「良い戦術はないか」と。
 大物主は考えて、大きな葛網(くずあみ)を編んで、これを敵に被せてからめ取り、やっとのことで退治することができました。

 全ての戦いも終わり一段落したところで、九州から上京したタネコと、タガから呼び出された大物主クシミカタマに対し、天君(あまきみ)より詔があります。
 「都を移したいので、国を見て廻れ」
 詔を受けて二人は国中を巡り見た結果、
 「カシハラが最適地と存じます」
 と申し上げると、君も同じ考えであったと打ち明けられて、アメトミに命じて、橿原宮(かしはらみや)を完成させました。又、
 「后を定めようと思うが、良き姫を奨めよ」
 と、諸神に問いかけられると、ウサツヒコが申し上げるには、
「事代主(ことしろぬし)がタマクシ姫と結婚して産んだ姫のタタラ・イソスズ姫は、国一番の美女でございます。現在神の坐すアワ宮にお住まいになっているのも良い記しでございます」
 それを聞いた天皇(すめらぎ)は、大層喜ばれてイソズス姫を后とされました。

 姫の亡き父・事代主にはエミス神の名を贈られ、孫のアタツクシネを高市の県主(あがたぬし)に取り立てて社を造営させました。そこで十月二十日、神祭を盛大に執り行い、そこには全国の神がみが並び揃いました。この神祭にちなんで、名前の初めに神の字を付けて、カンヤマト・イワワレヒコの天君と命名して全国に触れてしらしめました。

 サナト(辛酉しんゆう)の年に、天君は橿原宮に即位されて、この年が橿原宮元年となりました。
 御代神武(みよかんたけ)の大いなるかな。

終り

出典
ホツマツタエ(国立公文書館蔵)
秀真(ほつま)政傳紀(和仁估安聰訳述)
高畠 精二